ロスチャイルド家:謎に包まれた200年以上の歴史と繁栄、そして衰退
- 2025-01-03
ロスチャイルド家:謎に包まれた200年以上の歴史と繁栄、そして衰退
世界を支配する陰謀論の囁かれる対象として、その名をよく耳にするロスチャイルド家。現代においても裏で暗躍していると言われる一族ですが、その始まりや実態を詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。 本記事では、ロスチャイルド家の歴史を詳細に辿り、その栄枯盛衰を解き明かしていきます。数々の謎に包まれた彼らの物語に、ぜひご注目ください。
謎多きロスチャイルド家の始まり:フランクフルト・ゲットーからの出発
「ロスチャイルド」という呼び名は、ドイツ語では「ロートシルト」、フランス語では「ロチルド」と呼ばれ、様々な表記が存在します。本記事では「ロスチャイルド」という表記で統一します。
ロスチャイルド家が名乗り始めるようになったのは、1567年頃のこと。ユダヤ人のイサク・エルチャナン・バカラックという人物が、ドイツのフランクフルト・アム・マインにあるユダヤ人ゲットー69番地に家を建てました。この家の標識が赤かったことから、「赤い標識」を意味する「ロスチャイルド」と呼ばれるようになったと言われています。
16世紀のフランクフルト・ゲットー:過酷な現実
イサクが住んでいたフランクフルトのユダヤ人ゲットーは、別名「ゲットー」と呼ばれ、ユダヤ人を隔離する居住区でした。15世紀までは数百人程度のユダヤ人が暮らしていましたが、16世紀に入ると移民増加の影響で数千人規模に膨れ上がります。
しかし、急激な人口増加により、ゲットーでは衛生管理が行き届かず、不潔で臭い場所として周囲から忌み嫌われ、「不潔なユダヤ人」というレッテルを貼られることになります。
商人としての始まりとマイアー・アムシェル
劣悪な環境の中、ロスチャイルド家は代々小商人として細々と暮らしていました。 富豪とは程遠い、ごく普通のユダヤ人家族だったのです。
しかし、1744年2月23日、ロスチャイルド家の歴史を大きく変える人物が誕生します。その名はマイアー・アムシェル・ロスチャイルド。父はモーゼスといい、両替商や古銭売買を生業としていました。
モーゼスはユダヤ教を熱心に信仰しており、息子マイアーには商売よりもラビ(ユダヤ教における宗教的な指導をする祭司のような人)になることを望んでいました。そのため、マイアーはラビ養成学校に入学させられ、古代史や語学を学ばされました。
しかし、1755年、マイアーが11歳の時、モーゼスは天然痘で死去。翌年には母も亡くなり、マイアーは学校を退学して働くことを余儀なくされます。
親を失ったマイアーは、親戚の紹介でユダヤ人銀行家の家に奉公に入り、古銭の知識を生かし、古銭売買を始めます。
ロスチャイルド家の急速な発展:5人の息子の活躍
マイアーは奉公を続けながら商人の業務を学び、1764年にはフランクフルトで古銭売買を開業します。しかし、一般人相手ではなく、奉公先で知り合った軍人や、近くのハーナウにあるハーナウ宮廷の所有者であるビルヘルム、そしてビルヘルムに仕える高官たちから古銭の注文を受けるようになります。
さらに、両替商もやっていたマイアーは、ビルヘルムがイギリスに対して兵を貸し出す傭兵事業の資金関係にも携わるようになります。
1769年、マイアーは宮廷の御用商人となり、翌1770年にはゲットーに住む商人の娘と結婚。1792年までに5人の息子と5人の娘、合計10人の子供をもうけます。
一見、順風満帆に見えますが、実際はそうではありませんでした。ビルヘルムの傭兵事業では、貸し出した兵士が死亡すると多額の保険金を得られるものの、マイアーが受け取れるのはほんのわずかな額でした。
宮廷の御用商人という肩書きだけで、特別儲かっていたわけではなかったのです。そこで、マイアーは別の商売として、雑貨商を始めました。イギリスの工業製品や繊維製品などを販売し、フランクフルトで順調に売上を伸ばしていきます。
マイアーが事業を拡大し始める頃には、息子たちが事業を手伝い始めます。長男アムシェル、次男ザロモン、三男ネイサン、四男カール、五男ヤコブの5兄弟です。
特に、長男アムシェルと次男ザロモンは、ビルヘルムとの繋がりを生かし、多くの仕事をロスチャイルド家に回してもらえるよう尽力していました。
三男ネイサンは1798年、イギリスのマンチェスターに移住し、繊維製品をドイツへ送ります。これは、1798年7月14日にフランス革命の影響でドイツが混乱し、繊維製品が高騰していたため、大量に利益を得るためです。
ネイサンは繊維や染色業も手掛け、繊維事業全体で利益を上げるようになります。
こうして、長男、次男、三男の努力によって、ロスチャイルド家はゲットー屈指の資産家へと急成長を遂げます。
ナポレオン戦争とロスチャイルド家のさらなる飛躍
莫大な富を得たロスチャイルド家は、事業を小商人から銀行家へと転換し、貸付などを扱うようになります。
1806年10月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは、フランス革命を巡って勃発したヨーロッパ諸国に対する防衛戦争から一転、諸外国へ侵攻を始め、マイアーたちが住むフランクフルトも占領します。
ナポレオン戦争が始まってからおよそ1ヶ月後、ビルヘルムはナポレオンから君主の座を追われ、資産はフランス大蔵省が法定相続人となる旨を伝えられ、慌てて国外へ亡命します。その際、資産の管理をロスチャイルド家に委ねました。
しかし、マイアーは賢明な人物であり、ビルヘルムの頼みを聞きながらも、フランス側との関係も深めていきます。フランス当局は当然のことながら、フランスの傀儡国家となったフランクフルト大公国の外交官と密接になり、ロスチャイルド家は情報面でも非常に有利な立場を築き上げていました。
さらに、ナポレオンが1806年11月に出した大陸封鎖令という追い風も得ます。
これは、イギリスとの通商や通信を禁止し、イギリス製品を持っている場合は没収するという内容の法律であり、フランスのほかスペイン、イタリア、スイス、オランダ、デンマーク、ドイツなどがこれを守らなければなりませんでした。
イギリスやイギリスの植民地から綿やタバコ、コーヒー、砂糖といった商品を大量に輸入していた国では、当然商品が不足し、価格が高騰しました。一方、イギリスでは売る相手がいなくなり、商品の価格が暴落していました。
そこに目をつけたロスチャイルド家。高騰している商品をイギリスで安く買い、密輸すれば、莫大な利益を得られると考えたのです。
まず動いたのは三男ネイサン。兄弟の中でも行動力に優れ、「総司令官」と呼ばれるほど先導的な人物でした。ネイサンはナポレオン戦争が始まった当時、ロンドンに滞在しており、安く買った商品をロスチャイルド家独自のルートで諸国に売り捌いていきます。
父や兄弟もネイサンから商品を仕入れて利益を上げていきました。
そのルートは、英国政府にも知られ、フランス同盟国への軍事資金の輸送に利用されました。その輸送を任されたのも、三男ネイサンです。
1811年頃には、フランスのパリに移住した五男ヤコブと協力し、イギリスから渡された軍事資金をフランス経由でイギリス軍司令官に届けています。敵地を経由して軍事資金を渡すとは、大胆な人物ですね。
ロスチャイルド家の分岐と衰退:戦争と相続問題
1812年9月19日、マイアーは自身の死を悟り、5つの訓令を遺言として残します。
- ロスチャイルド家の事業の重役は一族のみに限る
- 事業を行うのは男子相続人だけ
- 一族から過半数の反対が出ない限り、総家も分家も長男が家督を継ぐ
- 結婚はロスチャイルド家親族内で行う
- 事業内容は秘密厳守であり、資産などの目録を公表しない
同日、マイアーは息を引き取り、父の遺言通り、フランクフルトでの事業は長男アムシェルが全て相続しました。
他の4兄弟はそれぞれ別の国に移り、銀行を起こすなど新たな事業を始めます。次男ザロモンはオーストリアのウィーンへ、三男ネイサンは引き続きロンドンで、四男カールはイタリアのナポリ、五男ヤコブはパリで活動します。
住む国はバラバラになりましたが、兄弟は協力し、重要なことは随時共有していました。
兄弟たちは各国で鉄道事業にも投資を始めます。長男アムシェルはドイツ鉄道やライン川鉄道の整備を進め、次男ザロモンは1835年、フェルディナントが皇帝に即位すると、鉄道建設の承認を出し、鉄道名を「カイザー・フェルディナント北部鉄道」とすることで、フェルディナント皇帝の機嫌を取り、建設の許可を得ています。
ザロモンは病院の建設や給水設備にも寄付したり、ユダヤ人に対する権利制限の撤廃にも尽力しました。当時、ザロモンが移住したオーストリアはユダヤ人差別が激しい国の一つでした。
しかし、1843年までに不動産購入の禁止という制限も撤廃させ、ユダヤ人の地位を向上させるだけでなく、自身もすぐに証券を購入しオーストリア屈指の大地主になっています。
一方、「総司令官」と呼ばれた三男ネイサンは7人の子供を残すものの、1836年7月28日に兄弟に先立ち病死しました。
四男カールは銀行業を地道に続け、1829年にはシチリアの財務フランクフルト総領事に任命されています。
また、パリにいる五男ヤコブも貴族たちの財産管理の相談に乗ることを目的に、次々と銀行の顧客を獲得していきます。
しかし、時は流れ、やがて事業を子供たちに託していくようになります。5兄弟の中で最後に亡くなったのは、1868年に亡くなった五男ヤコブです。
長男アムシェルは1855年に亡くなりましたが、子供がいなかったため、アムシェルの所有する財産は弟たちの子供へと受け継がれていきました。事業そのものも四男カールの子供が継いでいきます。
時は過ぎ、1901年。ロスチャイルド家の勢いに陰りが見え始めます。
カールの子供が継いだフランクフルト本家ですが、金融業が栄え始めたベルリンに移らずフランクフルトに残ったため、あっという間に時代に取り残され衰退してしまいます。
さらに、カールの子供は娘こそいたものの、男子がいなかったため、事業を継ぐ人物がおらず、1901年にはカールの子供も亡くなってしまいます。
ウィーン家、ナポリ家も事業が振るわず、衰退の一途を辿っていました。
世界大戦とナチスの影:ロスチャイルド家の苦難
繁栄を維持できたのは三男ネイサンが築いたロンドン家と五男ヤコブのパリ家のみでした。しかし、第一次世界大戦が始まると状況は一変します。
兄弟が各国に散らばっていたため、第一次世界大戦でロスチャイルド家は敵味方に分かれることになります。
ロスチャイルド家といえど、兵役の対象年齢であれば軍隊に入り、祖国のために戦わなければなりません。
繁栄していたロンドン家は、事業を支えることが期待されていた長男ライオネルは出征を免れることができましたが、次男イブリンは第一次世界大戦で勇敢な戦いぶりを見せ、1917年に戦死します。
さらに第一次世界大戦中に実施された税制改革により相続税を絞り取られ、大きく衰退してしまいます。
銀行業務も戦争という強い風に煽られ、所有していた邸宅を売却せざるを得ないほど追い詰められていきました。
しかし、ロスチャイルド家を追い詰めたのはそれだけではありません。時代は次の戦争、第二次世界大戦へと向かっていくのです。
この頃、影響力を強めたナチス・ドイツがロスチャイルド家をターゲットにし始めます。反ユダヤ主義を広めるにあたり、ロスチャイルド家を格好の標的と判断したナチス・ドイツは、ロスチャイルド家を黒幕扱いした映画を作ります。
1940年には、「傭兵事業で他人の血を売って財閥の基礎を築いた。悪辣な手段を使って繁栄した。」といった内容の映画が公開されました。製作者は反ユダヤ映画ではないと言いながらも、内容はユダヤ人が世界支配の陰謀を企んでいるとするものでした。
また、ドイツ国内でロスチャイルド家を称えて作られた記念碑もナチス政権の誕生とともに破壊され、ロスチャイルド家が所有する事業や施設も「アーリア化」されていきます。
「アーリア化」とはナチス・ドイツがユダヤ人を経済から締め出す経済政策であり、ユダヤ人が持つ企業や影響力のあるものを非ユダヤ人に売却、もしくは没収させていたのです。売却の場合も、本来の価値に合わないほど低額で買い取られてしまうこともありました。
また、1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合する頃には、ウィーン家の当主はイギリスへ亡命して身を守っていました。
唯一ウィーン家の投資家だけが残っていましたが、併合に伴い警察に連行されてしまいます。しかし、連行されたと言っても拘束されたわけではありませんでした。この時は、資産の没収と国外追放のみであったため、当主は所有する全資産を没収された後、国外へ出て行くことを条件に命は助かっています。
国外追放を受けたウィーン家の当主が向かった先は、海を越えたアメリカです。そして、彼は生涯ウィーンには戻りませんでした。
ウィーン家の当主がアメリカへ亡命してから2年後の1940年。第二次世界大戦からおよそ1年が経過したその年、フランス侵攻によりパリが陥落したことで、パリ家の人々も慌ててアメリカへ亡命していきます。
パリ家は資産を国外へ移送中でしたが、全ての資産の移送が終わるまで持ちこたえることができず、パリは陥落。残った資産は当然没収されてしまいました。
さらにロンドン家。資産の没収こそなかったものの、逃げるのが遅れたロンドン家の女性が強制収容所で命を落としています。
しかし、多少の余裕があったロンドン家は、ドイツやオーストリアから逃げてきた人々を預かり、かろうじて第二次世界大戦を生き延びました。
ちなみに、アメリカに亡命したウィーン家の当主も生き延びており、ナチス・ドイツが没収した資産は戦後に返還されていますが、当主は全てどこかに寄付したとされています。
しかし、ウィーン家の当主には子供がなかったため、1955年1月の彼の死をもって、ウィーン家も終わりを迎えます。
第二次世界大戦後も生き残ったのは、5つあったロスチャイルド家のうち、ロンドン家とパリ家のみです。それも、収入が激減し、邸宅や土地を売却しながらやっと生き延びている状態でした。
ロスチャイルド家の再生:新たな体制と現代
しかし、戦後生き残ったロンドン家とパリ家は、ただ衰退していくわけではありませんでした。
ロンドン家は分家のアンソニー・グスタフ・ロスチャイルド、パリ家は正式に当主となったギー・ロスチャイルドを中心に復興していきます。
ロンドン家のアンソニーは、第一次世界大戦で戦死したイブリンの弟です。戦争を逃れた長男ライオネルは1942年、第二次世界大戦中に病死します。
こうして残されたアンソニーは、一族内で頼れる人がいないこと、銀行業務の経験が浅い者が多いことから、これまで守ってきたマイアーの遺言を破り、ロスチャイルド家以外の人物に銀行の主要ポストを任せました。
アンソニーが亡くなった後は、アンソニーの長男エベリンと、ライオネルの息子であるエドムンドとレオポルドの3人が協力して銀行経営を継いでいます。
また、パリ家のギーは、ヤコブが残した北部鉄道の再建、大株主をしていた石油会社、鉱山会社への投資などを積極的に行い、これまで大口顧客だけを相手にしていた銀行業務も庶民が利用できるよう改めていきました。
それぞれ息を吹き返したロンドン家、パリ家は1968年、互いに連携を取り合う体制を築きます。
パリ家のギーはロンドン家の銀行のパートナーに、ロンドン家のエベリンはパリ家の銀行の重役に就任しました。
さらに、2003年にはロンドン家とパリ家で別々だった銀行が合併し、「ロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングス」が設立されています。
現在、ワイン事業や不動産事業も手掛けていると言われており、二度の大戦による衰退から立ち直っているようです。
ロスチャイルド家の総資産は億単位とも、もっと多いとも言われていますが、実際にはどれほどの資産を持っているのかは定かではありません。
このように辿っていくと、ロスチャイルド家は世界を支配するどころか、世界大戦の影響や後継者問題で断絶したり、一族を維持することに精一杯であったことが分かります。
大金持ちと聞くと、一生遊んでいそうだとつい思ってしまいますが、ユダヤ人である彼らにとって、ロスチャイルド家の経営は時に身の危険を生み出していたことでしょう。
政治的、経済的圧力や差別を乗り越えて200年以上続くロスチャイルド家。彼らは資産や家の内部の事をほとんど公開しないため、その私生活などは今も謎に包まれています。
そんな謎ゆえにナチス・ドイツが言い出したような陰謀論や噂話が絶えないのかもしれませんね。