歴史的ベストセラーゲーム『Minecraft』の奇跡:Mojang Studiosの興亡とNotchの軌跡

歴史的ベストセラーゲーム『Minecraft』の奇跡:Mojang Studiosの興亡とNotchの軌跡

歴史的ベストセラーゲーム『Minecraft』の奇跡:Mojang Studiosの興亡とNotchの軌跡

世界中で爆発的な人気を誇るサンドボックスゲーム『Minecraft』。その裏には、開発者Notchことマルクス・ペルソン氏とMojang Studiosの波乱に満ちた歴史があります。今回は、ゲーム誕生からMicrosoftによる買収まで、その軌跡を徹底的に解き明かします。YouTubeでは見られない、独自調査に基づいた詳細な内容をお届けします。

Notch:天才プログラマーの誕生と苦悩

『Minecraft』を生み出したNotchことマルクス・ペルソン氏は、1979年、スウェーデンに生まれました。幼少期からビデオゲームに親しみ、コモドール64でPCゲームをプレイしていた彼は、早くもプログラミングに興味を持ちます。15、6歳頃にはゲーム制作に関わりたいと真剣に考えるようになり、高校を中退。18歳でストックホルムのWeb系のプログラマーとして働き始めました。

しかし、1999年に20歳になった彼は突如仕事を辞めてしまいます。時を同じくしてITバブルが崩壊。次の仕事が見つからず、約2年間実家で無職生活を送ることに。この期間、彼はゲーム会社「Game Federation」に就職します。

Mojang Studiosの設立と「Wurm Online」

Game Federationで、Notchはロールフ・ヤンソンというゲームデザイナーと出会います。ゲーム好き同士意気投合した二人は、週末を利用してコツコツとゲーム開発を進め、2006年、Notchが27歳の時にMMOゲーム「Wurm Online」をリリースします。

「Wurm Online」はサバイバル要素の強いサンドボックス型MMOで、明確な目標やストーリーはありませんでした。この作品で一定の利益を得た二人、Notchとヤンソンは、ゲームの運営管理を行う会社設立を決意。それが、Mojang Specificationsです。

挫折と転機:デジタルカードゲーム構想の頓挫と「ルービーダン」

Mojang Specifications設立後、Notchはわずか1年で開発チームを辞める決断をします。その理由として彼は、実家の家庭環境の複雑さや、自身のキャリアの停滞、そして30歳への焦りを挙げています。

Notchの実家は、父親のアルコール依存症や薬物乱用、妹の薬物中毒など、複雑な問題を抱えていました。Notch自身も20代後半になってもこうした状況が続き、大きなストレスを抱えていたと言います。

その後、Notchは「Mindas Player」というFlashゲーム制作が得意な企業に転職。2012年にはCandy Crushをリリースし、大企業へと成長する企業でした。Mindas Player勤務中も、Notchは自身のゲーム開発を継続。2008年末にはMindas Playerを退職し、オンライン写真アルバムサービスを提供する「Jalbum」という企業に転職します。

しかし、ゲームへの情熱は増すばかり。2009年に入ると精力的に個人ゲーム開発を進め、複数のゲームデザインコンペにも作品を応募。Mega ManクローンゲームやLeft 4 Deadインスパイア作品「Left 4K Dead」などを制作しますが、どれも商業的な成功には至りませんでした。

そこで、Notchは「次に繋がるゲーム」、つまりある程度お金を稼げるゲームを作ろうと決意。Mindas Player時代に知り合ったジェイコブ・ポエルセルと再びタッグを組みます。当初はオンライン対戦型のデジタルカードゲームを構想しましたが、大規模なオンライン環境が必要なため、インディー開発者にはハードルが高すぎると判断。頓挫します。

「Minecraft」誕生の瞬間:インスピレーションと偶然の産物

Notchは再び一人での開発に戻り、アイデアを探し続けていました。そんな中、ちょっとした思いつきで制作したのが「ルービーダン」というゲームです。

「Dwarf Fortress」と「RollerCoaster Tycoon」という既存ゲームの要素を組み合わせた、アイソメトリック視点の建築ゲームでした。しかし、これはゲーム性という点では未完成で、素材も草、土、石の3種類のみ。一人称視点でのプレイを面白いと考えたNotchは機能を実装を試みますが、ゲームとして面白くなく、結局頓挫しました。

しかし、この「ルービーダン」こそが、彼の開発者人生を180度変えることになります。2009年5月、Notchはネットサーフィン中に「Infiniminer」というインディーゲームを見つけます。これはブロックで構成されたワールドマップで、金属を採掘してポイントを競う対戦型のゲームでした。

Notchは「Infiniminer」のプレイヤーレビューに注目します。多くが採掘対戦よりも、ブロックで何かを作り上げる建築の方が楽しいと評価していました。

この「建築」というキーワードがNotchの脳内でシナプスを繋ぎます。「ルービーダン」と組み合わせたらどうなるか?思いついたらすぐに行動するNotchは、「ルービーダン」のブロックテクスチャと一人称視点システムを活用し、青い空の下で建築を楽しむゲームを作り始めます。

そして2009年5月10日、「Cave Game」と名付けたテスト版が誕生しました。わずか1時間後にはバージョン0.09アルファを公開。その中で「Left 4K Dead」のデザインを流用したスティーブが登場します。

Minecraftの急成長とMojang Studiosの変貌

「Cave Game」のデモ動画をYouTubeに公開したところ、すぐに好意的な反応が返ってきました。Notchは本格的に開発に注力することを決意します。このテスト版は後に「Minecraft Classic」と呼ばれ、5月16日にはクラシック版へと開発移行しました。

約半年かけてコミュニティからの要望を反映し、機能を実装。正式にクリエイティブモードとサバイバルモードが導入され、水や動物、簡単な地形などが追加され、世界に生命が宿っていきます。「Cave Game」は「Minecraft」と改名されました。

2009年12月23日には、有料版「Indev」がリリースされました。カエルの帽子をかぶった女の子「ラナ」が登場するなど、開発初期らしさが残るものだった「Indev」も、29回のアップデートを経て、作業台やチェストなどゲームシステムの中核をなす機能が次々と追加され、サバイバルモードは現在のMinecraftに近づいていきます。

2010年2月にはワールドの境界がなくなる無限ワールドが実装され、ワールド探索がますます楽しくなりました。この無限ワールドの自動生成機能は、Notch自身もMinecraft成功の大きな要因だったと振り返っています。

この頃、一部のゲームファンはMinecraftがただものではないゲームになるかもしれないと気づき始めます。ネット上の掲示板には、自作の建造物を披露するユーザーが溢れ、口コミで注目度が高まっていきました。

2010年2月、バージョンはIndevから「Infdev」に移行。マップが無限になり、地形も自動生成されるようになり、ゲームの醍醐味の1つであるワールド探検がますます楽しくなっていきました。

2010年6月、Java版アルファがリリース。バイオームシステムやレッドストーン、ネザーの実装など、革新的な機能が次々と追加されます。1本15ドルのMinecraftは、毎日400本売れるようになり、Notchは自分が成功者になったかもしれないと実感し始めました。その年の夏には総売上高が2万本を突破し、勢いは加速していきます。

Valveからの誘い:人生最大の決断

Minecraftの成功はゲーム業界の注目を集め、Valveの「Team Fortress 2」開発チームはブログに「次のバージョン更新はおそらく遅れると思う。開発チーム全員がMinecraft中毒になって仕事に手がつかない」と投稿するなど、時代を代表するゲームとなっていきました。

2010年4月、NotchはJalbum社を正式に退社し、Minecraft、そして次のゲーム開発に人生を捧げる決意をします。まずはMojang Specificationsという名前で法人化することを決定。これは「Wurm Online」運営チームを離れた際に、将来のために取っておきたいと考えていた名前でした。

Notchは一人でコーディングすることに疲れていたので、仲間を探し始めます。そして最初に声をかけたのが、ジェイコブでした。再びタッグを組んで、デジタルカードゲームにも挑戦しようと持ちかけます。ジェイコブはMindas Playerに残っていましたが、管理職のオファーを受けていたタイミングであり、将来性のある会社で安定した生活を選ぶか、夢を追いかけるか、迷っていました。

そんな時、2010年8月頃、NotchのもとにValveのゲイブ・ニューウェル社長からの電話がかかってきます。丁寧なアメリカ人の声は、Minecraftの成功を祝福するとともに、Valve本社で一度会わないかと誘いかけてきました。

Notchは大興奮でした。Valveは「Half-Life」シリーズを生み出し、Steamで莫大な利益を上げた世界的ゲーム企業だったからです。しかし、Notchは同時に、これはコーヒー一杯で済む話ではないと気づきます。Valveは何かの仕事依頼なのか、それとも買収オファーなのか?

とりあえず、ゲイブ・ニューウェルと握手できるなら何でも良いやと、NotchはOKを返します。2010年9月、Valveが手配したファーストクラスの飛行機に乗り、高級ホテル「ウェスティン」に滞在したNotchは、ワシントン郊外の高級住宅街を見て、Valveのプログラマーになったら余裕で住めるだろうなと感じました。

しかし、Notchは、そのレベルに留まるつもりはありませんでした。Minecraftは、Notchがアメリカに向かっている間に2万本売れるほど売れていました。数ヶ月で無名の開発者からゲーム界の寵児になっていたのです。

Valveとの面会前夜、NotchはSkypeでジェイコブから連絡を受けます。買収の話が出たらどう答えるか?Notchは「彼らが何を望んでいるのか、まず知ってからだ」と冷静さを保ったと語っています。

翌日、Valve本社を訪問したNotchはゲイブ・ニューウェルと直接握手。歓談した後、人事部の男性と会議室に案内されました。その男性はValveの企業文化や、そこで働くことの話をしました。それは面接そのものでした。さらに、プログラミングの難問を提示され、問題解決能力を測られたと言います。

面接の終盤、人事担当は「あなたは才能のあるプログラマーだが、グループでの作業に慣れていない。私たちが手伝います。これはゲーム開発最前線に関われるチャンスです。あなたと一緒に働きたい」と、買収ではなく雇用を提案します。

Notchは、これが人生最大の決断の一つだったと話しますが、人事担当の質問に「きっぱりとノー」と答えました。彼はMinecraftの成功を見て、Valveで働くチャンスというよりも、Valveを作るチャンスかもしれないと感じたのです。

Notchはすぐにジェイコブに連絡し、ジェイコブも即日退職。ゲーム開発に専念するため、Notchの旧職場のJalbum社のカル・マニエを最高経営責任者として雇用。プログラマーを5名ほど雇い入れ、後にMinecraftのリードデザイナーになるジェブも加わりました。

Microsoftによる買収とその後

Mojang Studiosの体制が整うと、NotchはMinecraftの開発を主導し、ジェイコブはMinecraftで稼いだ資金で、デジタルカードゲーム「Scrolls」の開発を主導します。

Minecraftは絶好調で、2011年11月には登録アカウント数が100万を突破、半年後には1000万人に到達。日本語を含め、各国語に対応していないにも関わらず、世界中に広がっていきました。2011年3月には「Scrolls」も正式発表され、着実に基盤を築いていきます。

2011年11月18日、Minecraftは正式版リリース。ラスベガスで開催されたファン感謝祭「Minecon」第1回でも大盛況でした。

このタイミングでNotchは大胆な経営判断を下します。Minecraftプロジェクトのリーダーをジェブに全権委譲し、自身はMojangの3作目となる新作ゲーム「0x10c」の開発に注力するのです。

Notchはこの決断の理由について、「Mojangの最終的な目標は、スタジオから2、3本の大きなタイトルをリリースし、その売上高で多数の小規模タイトルや実験的なゲームの開発費を賄うことだ」と説明しています。彼はあくまでもゼロから一つを生み出す開発者でありたいという強い意志を示しました。

この頃、Notchはパートナーと結婚していましたが、父親の訃報が彼の心を深く傷つけました。父親はクリスマスの数日前、酒とドラッグでハイになった状態で拳銃自殺しました。Notchは父親の最期の思いが日々頭をよぎっていたと言います。

Notchは徐々に精神的に不安定になり、妻ともうまくいかなくなり、結婚生活は半年で破綻。そして、彼をさらに追い詰めたのが、Minecraftでした。開発から手を引こうとしても、ユーザーから直接バグ修正を求められたり、些細なことで批判や誹謗中傷を受けたりする事が増えました。

2年近くこの状態が続き、彼は徐々にこの状況からの逃避を模索します。2013年8月には「0x10c」の開発中止も発表しました。

2014年6月16日、風邪を引いて自宅に閉じこもっていたNotchは、熱で朦朧とする中、人生を変える129文字の暴言ツイートをします。「誰かMojangの株を買わないか?正しいことをしようとして傷つけられるのは僕の仕事じゃない。」

当初は冗談半分だったようですが、彼は口に出したことでそれが正しいように感じたと語っています。その後、MojangのCEO、カル・マニエの携帯電話は鳴り止まなくなりました。

買収に名乗り出たのは、Microsoft、EA、Activision Blizzardなどの大企業。最終的にMicrosoftが25億ドルでMojangを買収することを2014年9月15日に発表しました。

Notch、ジェイコブ、マニエの3人だけが株主だったMojangは、買収によって莫大な富を得、同時に無職となりました。「すっきりとした別れがしたかった」と、彼らはMojangを去る決意をしました。

2010年の創業から4年。「お金のためではなく、自分の好奇心を保つためだ」という言葉を残し、Notchにとっての壮大な日々は幕を閉じました。

Minecraftのその後とNotchの現在

Microsoftによる買収後も、Mojangは独立性を保ったまま運営を継続。「Scrolls」もジェイコブが去った後も開発が続けられ、2014年12月にベータ版がリリースされましたが、期待したほどの反響を得られず、2015年6月に開発が停止しました。

一方、Minecraftは2019年5月10周年記念日までに全世界で1億4700万本を売り上げ、史上最も売れたビデオゲームとなりました。Mojangの看板タイトルであり続け、現在もその人気は衰えることを知りません。

MojangはMinecraftフランチャイズの拡大を目指し、「Minecraft Earth(2019年5月)」「Minecraft Dungeons(2020年9月)」「Minecraft Legends(2023年4月)」などをリリース。Minecraftの強力なIP力を活かしたヒットタイトルの創造に近年は注力しています。

Notchは、表舞台から降りた後、2015年にジェイコブと「Lava Brain」という会社を設立。8億円近い開発費を投じて新作ゲームの制作に着手したとされていますが、2024年現在、1本も完成していません。

彼は歴史上最も売れたゲームを作ってしまったため、中途半端な作品は出せないというプレッシャーを抱えているのかもしれません。もしくは、まだ創造の真っ最中なのかもしれません。まだ45歳という若さですしね。

2024年6月14日現在、Minecraftでは最新の大型アップデート「トリッキー・トライアル」が配信され、ゲームの世界は年々拡大し続けています。

ゲーム業界の歴史を塗り替え、ゲーム史最大の発見となったMinecraft。ゲームという遊びの到達点を示したこの功績は、今後何十年も塗り替えられることはないでしょう。その偶然の重なりによって、たった一人の手によって生まれたという事実が、多くのゲーム開発者に勇気を与え続けているのです。

まだMinecraftをやったことがないあなた、今すぐ買ってください!くれぐれも私生活を壊さないようにだけ気をつけていただければと思います。

Mojangの歴史、いかがだったでしょうか?今回の動画は以上です。この動画が良かったと思って頂けましたら、ぜひチャンネル登録、高評価よろしくお願いします!モチベーション上がります!

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