任天堂を苦しめた25年間の戦い!マジコンの歴史と、その終焉
- 2025-01-03
任天堂を苦しめた25年間の戦い!マジコンの歴史と、その終焉
世界累計販売台数が1億5000万本を超え、携帯ゲーム機の売上として未だ歴代トップの座に君臨しているニンテンドーDS。ハードが飛ぶように売れる一方で、当時の任天堂はある存在に発売以降悩まされ続けてきました。それは競合のPSPでもPS3でもなく、「マジコン」という名の違法デバイスです。
この記事では、マジコンの歴史を徹底的に解説します。被害総額は2兆円を超え、ファミコン時代からゲーム業界に甚大な被害をもたらしてきたマジコン。なぜ長きに渡ってこの問題を食い止めることができなかったのか?誕生から終焉までの25年間と任天堂との激闘の歴史を追いながら、その実態に迫ります。
マジコンとは何か?その仕組みとゲーム業界への影響
歴史の解説に入る前に、簡単にマジコンの超基本概要およびゲーム史における位置づけを見ていきたいと思います。
マジコンとは、ゲームソフトのデータをコピーし、フロッピーディスクやSDカードに保存し、そのデータを使ってゲームを機器で起動できるデバイスの総称を指します。マジコンはデータさえ入手できれば正規のソフトがなくてもゲームを遊べてしまったため、対価を支払わずに不正な手段でソフトを入手する、いわゆる違法コピー行為を助長するデバイスでした。
ちなみに、ネット上でよく使われる「warez」の語源は、インターネット上の不正取引データを指す英語「warez」をローマ字読みした「ワレズ」が転じたものとされています。
違法コピー行為の横行は、ゲームの売上を直接的に下げ、業界全体に深刻な打撃を与えます。そしてそれが社会問題にまで発展したのが、ニンテンドーDSの時代(2000年代後半)だったわけです。そもそも違法コピーや海賊版といった違法行為自体は、ゲームが一般家庭に普及し始めた1980年代の古くから蔓延しており、世界中のゲームメーカーは長年に渡って対策に追われてきました。パソコンゲームの違法アップロード、PSPのカスタムファームウェア改造など、違法行為の種類は歴史を遡っても数えきれないほどであり、任天堂ハードを主に横行したマジコンもその一種に過ぎません。しかし、その被害の規模や流通した経緯の特殊性から、マジコンが社会に残したインパクトは群を抜いており、今回はそれのみを大々的に取り上げることにしました。
はい、前置きが長くなってしまいました。では、ここから本題に入ります。
マジコンの起源:ファミコン時代
マジコンは、ニンテンドーDSが発売される21年前、ファミリーコンピュータが発売された1980年代初頭に初めてその存在が確認されました。当時、ファミコンのような家庭用ゲーム機が登場するまでは、ゲームといえば店で遊ぶアーケードが主流でしたが、その時からすでに違法コピーの存在は業界で問題になっていました。
特にスペースインベーダーが爆発的に流行した際には、プログラムを無断でコピーし、名前だけ変えて販売する業者が続出。この状況を受けて、1982年に権利元のタイトーが起こした「スペースインベーダーパート2裁判」は、日本で初めてゲームの無断複製は著作権侵害であり違法という解釈を明確に示した判例となりました。
ただ、ファミコンが発売されたのはその直後であり、さらに1986年の著作権法改正までに4年の空白期間があったため、ファミコンにおいても無断複製を企てるものが当然のように現れました。「タコのスイドーシ」と呼ばれたROM複製方法を解説する雑誌特集が組まれたり、ソフトがダビングできるという謳い文句のコピー機までが公然と販売されるようになったのです。
中でも有名なのは、本体価格9000円で販売された「ファミリーエース」というダビング機で、チラシに元プロボクサーの輪島功一氏が「僕の子供も愛用」という、無茶すぎるコメントを寄せていたことでも知られています。ダビング機の構造はシンプルで、2つのカセット差し込み口があり、一方に本物のカセット、もう一方に「ナムコ」を挿入してコピーを行うというものです。ファミリーエース以外にも「ダビングくん」や「スーパーライター」など、同様の機能を持つダビング機がファミコンブームに乗って次々と市場に出現し、発売されたタイミングはそれぞれ微妙に前後あれど、およそこれらがマジコンの原点と言えます。
ただ、この時代はインターネットがないため、コピーするにはソフトを友達から借りるなどする必要があり、ダビング先のナムコも1本あたり2〜3000円というそこそこの値段だったため、ダビング機を購入するユーザーはごく少数で、任天堂が被った損害も限定的でした。
マジコンの進化と香港・台湾との関わり
時代が進み、1980年代後半に入ると、マジコンの舞台はファミコンディスクシステム、そしてスーパーファミコンへと移り変わっていきます。そしてその時代、マジコン開発で急速に影響力を強めていったのは、意外にも海の向こう、香港でした。
スーパーファミコン時代:香港の台頭
任天堂は1986年春、ファミコン用の周辺機器「ディスクシステム」を発売しました。同機が採用した新規格のソフトは、薄型のクイックディスクというもので、ファミコンカセットの約3倍の容量を誇りました。そして何と言ってもディスクシステム最大のセールスポイントは、ゲームの書き換え機能。
ソフトは「買う時代から書き換える時代へ」という謳い文句の通り、全国のレンタル店に設置されたディスクライターを利用すれば、500円ワンコインでディスクカードの内容を新しいゲームに入れ替えることができました。しかし当然のごとく、ディスクシステムも発売からしばらくすると解析され、様々なコピーツールが出回るようになります。マニア向け雑誌「バックアップ活用テクニック」がディスクシステムを2台使ったゲームコピーの回路図を公開したほか、ファミコン改造ツールの販売会社であったi2が「子育てゴッコ」や「ディスクハッカー」といったコピーツールを市場に投入しました。しかしこちらも本格的に普及することはありませんでした。
その理由は、ディスクシステム自体の普及率の低さです。皮肉なことに、すでに時代遅れと思われていた旧規格のROMカートリッジが急速に大容量化を果たし、ディスクシステム発売の翌1987年にはROMカセットの性能がディスクシステムに追いついてしまったんですね。優位性が失われ、ソフト販売本数も87年の約70本から88年には50本、そして89年には20本へと急激に減少していきました。
ディスクシステム発売から3年後の1990年11月、任天堂はファミコンの後継機としてスーパーファミコンを市場に投入します。ファミコンと比べてグラフィック表示や音源の処理能力が格段に向上し、同世代機の中で圧倒的な大ヒットを記録しました。そして大方の予想通り、スーパーファミコン用のマジコンも登場します。当初、任天堂を含む業界関係者は、ファミコン時代と同様にマジコンの流通は限定的で、一部のマニアによる利用にとどまると考えていました。しかし、この時は少し様子が違いました。
悪い意味で業界に一石を投じることになったのが、当時「電脳都市」との呼び声が高かった香港と、そこに出現する複製屋の存在です。
香港・台湾におけるマジコン製造と流通
ビデオゲーム文化が急速に拡充を迎えていた1990年前後の香港は、まだイギリス領の時代ですが、当時から中国圏との経済、文化面での繋がりは深く、また世界屈指の電子街を擁していることから技術的にも進歩しており、「電脳都市」とも呼ばれるほど電子機器やコンピューターパーツが集まる市場が形成されていました。そして当時の中国は現在とは異なり、偽造品が蔓延する時代。著作権意識は極めて低く、特にデジタルコンテンツは法規制が追いついていなかったため、アンダーグラウンドビジネスの格好のターゲットとなっていました。
マジコン製造の本拠地となったのは、香港の旺角で、商店街や露店にはバックヤードにマジコンを何台もセットし、ゲームコピーをその場で販売している、いわゆる複製屋が並んでおり、1枚200円という安さで人気ソフトのコピーディスクが売られていました。香港のコピービジネス自体はファミコン時代からすでに存在していましたが、スーファミ登場後のゲーム人気過熱と共に市場規模は拡大。当初はひっそりと行われていたものが、任天堂が特段の対抗措置を取らなかったことも有り、次第に公然と行われるようになっていきました。
スーファミ用のマジコンが明確に商品として売り出されたのは1992年初頭のことでした。第1号となったのは、香港と並んでコピー大国だった台湾の企業、フロントファーイーストが発売した「スーパーマジコン」でした。このマシンの登場以降、業界ではこの種の機器を総称して「マジコン」と呼ぶようになりました。そしてこれは同時に、マジコンが任天堂にとってその後20年と続く脅威となり始めた、まさに転換点となった瞬間でした。
任天堂の反撃とV64:法廷闘争の始まり
スーパーマジコンは、違法コピービジネスの土壌が整いきった台湾、香港で、すぐに爆発的な売れ行きを見せ、香港ではチャイナコーチという会社が代理店になり販売を開始しました。しかし、このチャイナコーチ、代理店の立場を利用し、マジコンの基盤をコピー、速やかに独自開発版「スーパーコム」の製造に乗り出します。コピーマシンをコピーするという皮肉な状況に、元締めだったフロントファーイーストも当然気が付き、代理店契約を解除。その後結果的に、チャイナコーチは技術だけ抜き取った形で「スーパーコム」アップデート版の「スーパープロファイターハオウ」というマジコンを発売しました。
この一件を皮切りに、香港の複製屋やメーカーは次々にスーパーマジコンの模倣品を販売し、マジコン業界は任天堂を横目に勝手に戦国時代とも呼ぶべき混沌期に突入していきます。
この時期に登場したマジコンの中で特に目立ったのは、バンブーという会社が製造した「ゲームドクター」というマシンで、複製機能のほか、リプレイ機能やチート機能を搭載し、高い人気を博しました。香港ではテレビCMまで流れるほどだったそうで、当時の無法ぶりを如実に物語っています。こうなればもう時間の問題で、マジコンの熱気は日本にも波及し、輸入ビジネスとして目を付ける人々も現れ始めました。いつの日か国内のパソコンゲーム雑誌には、香港・台湾産のマジコンの広告が掲載されるようになり、秋葉原や上野、池袋近辺にはマジコンをひっそりと売る店も出始めました。それが1993年から94年頃の話です。
更にスーパーマジコンの後継機「スーパーワイルドカード」やチャイナコーチ社の「ハオウ」が次いで日本市場に浸透し、その他U4スーパードライブといった機種も市場シェアを奪い合いました。ただしこれら、どれも本場香港では2万円前後で販売されていたものが、日本では高額なマージンを乗せた4万円から6万円という値段で取引され、知名度も限定的とあって、ファミコン時代と変わらず一般消費者には縁のない存在でした。
ちなみに話は一瞬逸脱しますが、スーファミと同じ第4世代機として熾烈なハード戦争を繰り広げていたセガのメガドライブにも、マジコンは少ないながら流通していました。ただセガは、当時本気で何でもかんでも任天堂に勝とうとしていたため、早い段階からマジコンの流通にも敏感に反応していました。彼らが取った対策は、マジコンを物理的に装着できないようにデザインを変更したメガドライブ2を発売すること。一見すると子供だましの対策のように思えますが、これは地味に効果を発揮したようで、以降マジコン業界はメガドライブから手を引いたという話が残っています。まあ結局ハード戦争には負けてしまったわけですが。
インターネット普及とマジコンの再燃
このようにスーファミ登場以降、香港・台湾に限っては深刻な被害をもたらすようになっていたマジコン産業。同地に刺客を構えていた任天堂および各メーカーは当然この状況を把握しており、対策として不正コピーを防ぐコピープロテクトをソフトに実装するなど対策を急ぎましたが、これらもすぐに解析され突破されるといういたちごっこが続いていました。
そんな膠着状態の中、90年代中盤差し掛かると、ゲーム業界はプレイステーションを筆頭に3D機能を搭載した次世代機が登場することで大きな転換期を迎えます。任天堂も対抗するように1996年、ニンテンドー64を市場に投入し、スーパーマリオ64など3次元空間での操作を売りにしたゲームを多数開発しました。ただ64は、プレイステーションなどがゲームメディアをCD-ROMへ移行していたのに対し、ROMカートリッジにこだわり続けたことでシェアを大きく落とすことになります。ROMカセットにはロード時間の速さやCDより物理的な耐久性が高いというメリットがありましたが、データ容量が少ないという致命的な欠点があり、ゲーム開発をかなり難しくしていました。
その結果、参入メーカーが減少してソフトが不足し、更にドラクエ、FFといったファミコン時代からのキラーソフトがプレイステーションで発売されたことで、出荷台数は同世代機と比べて大幅に低迷してしまいました。
このような背景から、特に香港、台湾などのアジア圏では90年代中期から後期にかけて、任天堂系ハードはスーファミが依然として主流であり続け、マジコン市場の主要プレイヤーもほとんど変化がありませんでした。しかしその中で唯一と言える任天堂64マジコンを製造したのが、先に登場した香港のバンブー社です。マジコンの名前は「Dr.V64」。バンブーは戦略として、ターゲット市場をアジアではなく米国とヨーロッパに据えることで販売数を伸ばしていきました。しかし、この動きがついに、それまで静観を貫いていた任天堂の怒りに火をつけることになります。
法的攻防とDMCA:任天堂の勝利
1997年11月21日、アメリカ現地法人の任天堂オブアメリカは、V64が著作権と商標権を侵害していると訴え、バンブーと販売代理店の2社を相手に連邦裁判所に訴えを起こしました。いよいよ任天堂がマジコン業界と全面的に戦う決断を下した背景には、主に2つの理由があると言われています。
1つはインターネットが普及し始めたこと。もう1つはV64が非公式のゲーム開発手段として流通していたことでした。97年から98年にかけて、Windows98の発売を契機にインターネットは急速な普及期を迎えます。人口普及率は日本で13%、アメリカではすでに20%を超えていました。インターネットは画期的な技術であった一方で、ゲームを含むコンテンツ事業者にとっては、海賊版の流通が加速することに強い危機感とともに受け入れられていました。
64ソフトの違法コピーデータは、当時利用可能だった電話モデム経由でダウンロードするには大きすぎるサイズでしたが、98年からはADSL技術の登場によってネット通信速度が飛躍的に向上し、違法データの流通はどんどんと拡大してしまいました。「このままでは歯止めが効かなくなる」そう任天堂は判断したわけです。
そしてもう1つ、V64がそれまでのマジコンと大きく異なっていたのは、ソフト開発機として使用できることを全面にアピールしていた点です。当時のゲーム開発には、任天堂公認のパートナーN64やSGI Indyといった開発用マシンが必要でした。しかしどれも生産数が限られていたうえ、1台50万円とかなり高額だったため、資金力の乏しいサードパーティメーカーは非公式の開発手段を使うことが珍しくありませんでした。
そんな状況下でV64は機能面での完成度が高く、なおかつ1台5万円という圧倒的な安さから開発者たちの間で高い人気を集めていました。こういった非公式開発ツールの販売自体は完全に違法とはいかず、グレーゾーンではありましたが、任天堂にとって開発デバイスのライセンス販売も重要な事業の一つであり、まとめるとV64は著作権侵害と市場の侵食という二重の意味で深刻な脅威となっていたわけです。
しかし当初、本件裁判は過去の判例から任天堂にとってやや不利に見られていました。それが1983年に争われた「ベータマックス訴訟」というルイジ案件で、ソニーのビデオレコーダー「ベータマックス」によるテレビ番組の録画が著作権侵害に当たるかが争われ、結果、著作権を侵害しない私的使用目的であれば複製デバイスは合法であるという判決が下されていたからです。マジコンに関しても、自身が所有しているゲームをバックアップすることは私的使用の範囲内であって、元来違法ではない。消費者が購入して後はどう使うかにも、バンブーは直接関わっていないし知らないので責任はない、そう弁明できる余地があったわけです。
そんな中、任天堂にとって追い風となったのが、「デジタルミレニアム著作権法」という新法の制定でした。任天堂が裁判で争っていた最中の98年、ハリウッド映画業界からの強い政治的圧力を背景に、インターネット上の著作権侵害に対処する法律として世界に先駆けて制定されたDMCAは、著作権保護の仕組みを回避することも明確に違法と定めました。これによって、コピープロテクトを意図的に回避する機能を持っていたバンブーのV64も違法であるという判断を任天堂は勝ち取ることに成功。99年12月、任天堂訴訟で決着がつき、アメリカ国内でのV64の販売は停止に追い込まれました。
その後、任天堂はヨーロッパや香港でもバンブー社を提訴し、2002年12月にはついにバンブーとその関連企業全てを解散に追い込んでいきます。しかし、この勝利を得るまでの間でも、任天堂は世界中で最低年間700億円を超える売上損失を被ったとされています。
DS時代:マジコンの再々燃と法改正
バンブー社の一件で、マジコンはついに法の裁きを受け、これで違法コピー業界は完全に終わりを迎えるだろう、当時は誰もがそう考えていました。しかし直後、任天堂の前にさらに最悪にして最大の壁が立ち塞がることになります。
2002年にかけて任天堂が各国で違法業者への法的措置を行ったおかげで、2001年発売のゲームボーイアドバンスとゲームキューブにおいてはマジコンの活動は確実に影を潜めました。そして2年後、2004年12月、任天堂はDSを市場に投入し、ゲームハード市場で空前の大ヒットを記録することになります。2005年末には、予想をはるかに上回る需要によって供給が追いつかず、謝罪する事態にまで発展し、当時社長を務めていた岩田氏も「異様な状況」とコメントするほどの社会現象となりました。
前例のない爆発的ヒット。そんな巨大マーケットを前に、マジコン業界は静かに復活の時を待ち構えていました。動画冒頭でお話しした通り、結局マジコンはこのDS時代において、それまでで最大の深刻な被害をもたらすことになります。
最大の原因は、もうなんとなく分かるかと思いますが、インターネットの普及です。2004年時点で、日本、アメリカを含む先進国のネット普及率はすでに70%を超えており、日本では同年にmixiのサービスが始まり、2ちゃんねる掲示板の訪問者数も700万人を突破するなど、ネット上での双方向コミュニケーションは日常的な光景となっていました。そしてこの頃から、ネットの負の側面として大きな社会問題となっていたのが、ファイル共有ソフトの存在でした。
2000年代初頭には、NapsterやWinMXといった初期のファイル共有ソフトが登場し、その後、日本の金子勇氏が開発したWinnyやBitTorrentなど、技術進歩とともに新たなツールが次々と開発されていきました。これらのサービスはどれも、P2P技術というサーバーを介さずに端末同士が直接データをやり取りする通信方式を採用しており、それは当時のメールや通常のネット通信では難しかった大容量ファイルの共有を可能にした画期的な技術でした。
しかし特に後期に登場したWinnyなどは、通信の秘匿性が高く、摘発を回避しながら違法データを共有できる巧妙な仕組みを備えていたため、音楽、映画、ゲームなど様々なコンテンツの違法データ交換の温床となってしまったのです。
DSマジコンとR4:終焉への道
DSの大ヒットによる過去類を見ない市場規模の大きさ、そしてP2P共有ソフトの登場によって、そこで入手したデータを起動できるデバイスとして急速に高まった需要。それらが噛み合って、再びマジコンは世に現れました。開発を行ったのは、再び香港・台湾の複製屋の流れを汲むエンジニアたちでした。特にDS機においては、深圳エリアがメインの製造拠点になったと言われています。
DSマジコンの歴史は、「R4」というマジコンが登場する以前と以後で明確に二分することができます。R4以前のDSマジコンは、マイクロSDを挿入するだけのシンプルな形態ではなく、複数のデバイスを組み合わせる必要がありました。この時代表的だったスーパーカードやM3アダプターなどは、DS本体のゲームボーイアドバンス用スロットに挿入して使用するもので、データを起動させるにはDSのファームウェア改造も要求されたため、一定の専門知識が必要でした。
しかし、DS発売から3年後の2007年、「チームR4」という複製屋が開発した「Revolution for DS」の登場によって状況は一変します。R4はDSカードスロットのみで動作する初のマジコンで、マイクロSDカードにゲームデータをコピーしてそれを挿入するだけで、特別な改造なしに直接起動が可能でした。また、R4はファミコン時代から続く歴代マジコンよりはるかに小型で大量生産が容易であったため、1個3000円程度とゲームソフト1本よりも安い値段で販売され、ネット通販やオークションサイトを通じて米国、ヨーロッパ、日本へと爆発的に流通していきました。
そして任天堂にとって特に目も当てられないほど深刻だったのは、最大の顧客である分別がつかない少年少女の手にまでマジコンが広まり渡ってしまったことです。リテラシーのない大人が子供に買い与えるなどの事例が頻発したことがこの背景にあります。それに対する任天堂等メーカー各社による啓蒙活動やコピープロテクトの実装は全く意味をなしませんでした。
当時の会見の場で、任天堂岩田社長はメディアに対し「何をしても対抗策が出てくる。ある意味終わりなき戦いだと覚悟しているが、こっちが諦めずに技術的にも法的にもやり続けるしかない。具体的なことをここで話すとかい賊行為をしている側の目にも触れるのでご容赦願いたい」と、いよいよ法的措置も辞さない構えを滲ませました。
マジコン終焉への道:刑事罰の導入
ではそもそも論、V64でマジコン業界は法的に完全敗北した前例があったのに、また平然と復活してしまったのはなぜなのでしょうか?その理由は、当時日本も含めて世界的にマジコン販売について刑事罰による対処になっていなかったためです。
簡単に説明すると、法律による罰則には民事罰と刑事罰があります。刑事罰は国家が主体となって法律違反者を処罰するのに対し、民事罰はあくまで個別のケースに対応するもので、広く一般の違反者を一斉に取り締まる仕組みではありません。そのため、業者Aを訴えてAが販売を中止しても、BやCが別の場所で販売を続けるということが可能でした。つまりV64の事例も、バンブー社を含む一部業者への処罰に過ぎず、「今後マジコンを販売したら任天堂の訴えの有無に関わらず国が罰しますよ」ということではなかったわけです。
こういった構造上の穴がDSマジコンの蔓延を阻止できなかった最大の理由でした。2008年7月、任天堂およびソフトメーカー54社は共同でR4マジコンを輸入販売していた複数業者に対して、販売差し止めなどを求めて提訴しました。翌2009年2月、任天堂の主張は全面的に認められ訴訟は決着。しかしこれも民事罰にとどまったため、マジコン販売店は単に店名を変えて同じ場所で営業を再開するなど、状況は一向に改善されませんでした。
しかしここからさらに1年半余りがたった2010年6月、東京大学によるマジコンの利用実態調査によって驚くべき事実が判明し、問題が大きく進展することになります。それが、マジコンによる被害総額が2004年から2009年までの6年間で、日本国内で3500億円、全世界で1兆5000億円という規模に達していたという事実でした。
この衝撃的な調査結果を受け、さすがに国も動くことになります。同年10月、文化庁はコンテンツ産業の成長が阻害されていて事態は深刻であるとして、マジコンに対して刑事罰を規定する審議開始を発表。そして2011年12月1日、「改正不正競争防止法」が施行され、マジコンの製造・販売に対して5年以下の懲役、または500万円以下の罰金という刑事罰が設けられることになったのです。また並行して訴えを起こしていた世界各国もおおよそ同様の形で規制へ動き出す判決が示され、任天堂はファミコンが誕生した1983年から実に28年、ついにマジコンを封じ込めるに至りました。
マジコンの終焉と現代
その後も業界全体でプロテクト技術が飛躍的に向上し、オンライン要素を組み込んだゲームの増加も相まって、不正行為の検出が容易になりました。さらに、基本無料でゲームを提供するビジネスモデルが一般化したことも相まって、2024年現在ではマジコンを目にすることはほとんどなくなっています。
マジコンの歴史、いかがだったでしょうか?今回の記事は以上です。この記事が良かったと思っていただけたら、ぜひとも高評価、チャンネル登録よろしくお願いします。めちゃくちゃモチベーション上がります!最後までご視聴ありがとうございました!