日本の城とヨーロッパの城塞都市:その驚くべき違いと歴史的背景

日本の城とヨーロッパの城塞都市:その驚くべき違いと歴史的背景

日本の城とヨーロッパの城塞都市:その驚くべき違いと歴史的背景

古来より人類は、自らの領土を守るため、実に様々な工夫を凝らしてきました。その努力の結晶こそが「城」です。城とは、まさに国の拠点。人々は持てる技術を全てそこに注ぎ込み、時代とともに城を進化させてきました。これは世界中のほぼ全ての地域に共通していると言えるでしょう。そしてその進化の末に、ヨーロッパでは城塞都市が誕生しました。大きな都市を丸ごと壁で囲い込むことで、外敵の侵入を防ぐことができるのです。一見すると、これは非常に理にかなっており、拠点の最終到達点と言えるように思えます。

しかし、これほど様々な形の城を持つ日本においては、城塞都市と呼ばれるようなものは発達しませんでした。一体なぜなのでしょうか?決して日本の技術が遅れていたわけではありません。そこには、日本独自の複雑な要因が存在していたのです。本記事では、日本の城下町と海外の城塞都市を比較しながら、両国の違いについて詳しく見ていきましょう。

中世ヨーロッパと日本の城:その外観の違い

まずは、中世ヨーロッパと日本の城の外観を比べてみましょう。目を引くのは、その形状の違いですよね。ヨーロッパの城は石造りの重厚な建物であるのに対し、日本の城は美しく白い天守閣が目立ちます。

しかし、城の姿だけでなく、周囲の町の姿も違っていました。何が違うかと言うと、ヨーロッパの城は城塞都市が一般的だった点です。その名の通り、周囲の都市ごと高い城壁で囲み、その中に城と町が一体となって存在していました。一方、日本の城は独立して城壁で守られており、その外に城下町が広がっています。

なぜこのような違いが生まれたのか? 城の目的を探る

なぜこのような違いが生まれたのでしょうか?その謎を解くため、両者の城が作られた目的を見ていきましょう。

まず日本の城は、大まかに4つの重要な役割を持っていました。

  1. 軍事拠点としての役割: 城は非常時に敵の進攻を防ぎ、さらに籠城戦の拠点となります。そのため、必要な武器や食糧も備蓄されていました。

  2. 権力を誇示するための装置としての役割: 例えば、戦国時代に天下を目指した織田信長が築いた安土城は、それまでの城とは一線を画す圧倒的な存在感を放つ城でした。特に天守閣は類を見ない大型の物でしたし、天守閣の周りを全て囲う石垣も珍しい作りで、それまでにない豪華絢爛な城だとたちまち話題になったそうです。こんな城に住まう織田信長は、領民たちにとってまさに天上界の存在として映ったことでしょう。上下関係があいまいだった中世の時代、この意匠は、主君と家来の格の違いを視覚的に示す重要な装置だったのです。また、城に威圧的な外観をもたせることで、敵の進攻意欲を挫くこともできたと言います。この城が持つ存在感は絶大で、以後の権力者たちも競うように壮大な城を築いていきました。

  3. 政治拠点としての役割: 城内には御殿と呼ばれる建物が設けられ、主君や家臣たちが集まって政務を取り行う場所となりました。現代で言うところの県庁や市役所にあたりますね。ちなみに、現在でも多くの城跡が公共施設として使われている例があります。有名なのは福井県庁で、御殿跡の石垣の上に建てられているのです。中世からの伝統が、今も現代に続いているのかもしれません。

  4. 生活の場としての役割: 城は勿論、主君の住む場所として利用されていましたが、私たちが想像するような天守閣で生活していたわけではありません。実は天守閣は主に物置として使われ、主君のなかには生涯一度も天守閣に上がらなかった人もいたほどです。実際は本丸御殿や二の丸御殿といった、天守閣とは別の場所で生活が営まれ、他国からの使者を迎える大接見間や会議用の広間なども備えられていました。

このように日本の城は、軍事拠点として、権力の誇示と政治の場、領主の生活の場としての目的を持って建てられていったんですね。

ヨーロッパの城:共通点と相違点

一方、ヨーロッパの城はどうだったのでしょうか?実は、ヨーロッパの城も日本の城となんら変わらない目的で建てられていました。威勢者や軍の司令官の住居として、また政治や情報の拠点としての機能を持ちます。また、軍事拠点として山地や河川沿いなどに建設され、支配区域を守る役割を担っていました。さらに、食糧・武器・資金の備蓄場所として利用されている点も同じです。

このように、一見全く異なる姿を持つ日本とヨーロッパの城は共に、軍事拠点、政治、生活という共通の目的を持っていました。では、なぜ同じ目的を持ちながら、これほど異なる形になったのでしょうか?

地理的条件:大陸と島国の違い

日本とヨーロッパの大きな違いは食生活、天候など色々ありますが、そもそも全く異なった条件があります。それは地理的条件です。ヨーロッパは大陸、一方日本は小さな島国。この差が、両国の防衛のあり方に大きな違いを生むことになりました。

地図を見てもお分かりの通り、ヨーロッパがあるのは広大なユーラシア大陸です。大陸にあるということは、他国と陸続きということです。そう、ヨーロッパ諸国は、ヨーロッパだけでなくアジアとも陸続きとなっており、常に異民族からの侵略の危機に晒されていたのです。そのため人々は一箇所に集まり、高い壁の中で生活せざるを得ませんでした。要するに、国民と領土を守るために高く頑丈な壁が作られていたんですね。ちょっとやそっとじゃ越えられそうにない壁で町を囲い込んでしまうことで、侵略から身を守る必要があったわけです。

日本はなぜ高い城壁を作らなかったのか?

では、日本はどうでしょうか?ヨーロッパと違い、島国なので四方をお湯に囲まれています。そのため、海が城壁の役割を果たし、過去一度たりとも異民族からの侵略を許したことはありませんでした。例えば、1274年、モンゴル帝国が対馬から侵略を仕掛けたいわゆる元寇の時も、荒波がモンゴル軍を撤退させた一因と言われています。このように国土自体が自然の要塞として機能していたため、高い城壁は必要なかったわけです。

「天高く馬肥ゆる秋」:大陸と島国の危機感の違い

ここで、大陸と島国日本の違いを明確に感じさせる面白いエピソードをご紹介しましょう。それは「天高く馬肥ゆる秋」という言葉です。この言葉は日本で秋は空が高くなり、馬が肥えるほど食べ物も美味しい豊かな季節という意味ですよね。しかし、この言葉の発祥の地・中国では全く違う意味を持ちます。実は、「越えた蒙古馬に拠った北方民族が秋の収穫期に襲来する」という警戒信号だったのです。これが平和な日本に伝わるうちに意味を失い、意味が様変わりしたと言われています。常に異民族の侵略に目を光らせなければいけなかった大陸と、日本の危機感の差が現れていますね。

こういったエピソードからも分かる通り、異民族による侵略の心配がない日本には、高い壁は築かれませでした。しかし、高い壁を作らなかった理由はそれだけではありません。他に一体どんな理由があるかというと、地震です。皆さんもご存知の通り、日本は地震大国のため、高い城壁を築いても地震の度に崩れてしまい、大変危険だったのです。これに対し、地震の少ない西洋では高い壁を築くことが可能でした。このことから、実は日本は壁を作らなかったというより、作れなかったという見方もできますね。

日本の城の防衛:堀の重要性

とはいえ、異民族からの侵略がないにしても、国内での紛争は絶えずあります。では、高い城壁なしにどうやって城を守ったのでしょうか?そのヒントは「城」という字にあります。「城」という漢字は「土から成る」と書きますね。日本の城はまさにこの字通りの構造で防衛していたのです。土を掘って堀を作り、その土で壁を築く。そうです、日本の城の防衛はが鍵でした。

堀とはどのようなものかというと、城の周囲を囲むように掘られた溝のことです。簡単に越えられない深い溝にさらに水が張られたものもあり、その深い溝や水が城への侵入を阻みました。こうした防衛方法は古代より既にみられたと言います。中世の物で特に有名なのは姫路城の堀でしょう。30にも及ぶ堀は、なんと城下町全体を囲むように作られました。このように、城下町も含めて堀で囲んだ都市造りのことを総構えといい、戦国時代後期からこの防衛方法をとる都市が増えました。総構えの規模が大きい城としては、大阪城や江戸城も有名です。特に豊臣秀吉が築いた大阪城の堀は、一辺2キロメートル、総計8キロメートルに及ぶ大規模な総構えで難攻不落として知られていました。

この総構えが最も活躍したのが、1614年に起こった大阪冬の陣です。この戦では徳川家康が大阪城に攻め込みましたが、20万もの軍勢をもってしても城を落とすことができませんでした。そのため家康は、和議の条件として総構えの破壊を要求したほどです。それほど総構えの威力は絶大だったという事でしょう。

日本の総構えとヨーロッパの城塞都市:決定的な違い

そしてこう聞くと、「この日本の総構え、ヨーロッパの高い城壁と同じじゃないか?」と思いませんでしたか?都市ごと堀で囲むのは、城壁で囲むこととなんら変わりがない気がしますよね。しかし、ヨーロッパの城塞都市とは決定的な違いがあります。それは、日本の総構えは外側に行くほど貧弱になるという点です。ヨーロッパでは都市を囲む外側の城壁を最も堅固に築くのに対し、日本は城下町を守る堀は城を守る堀より簡素なもので、城に近い中心部に行くほど堅固でした。

ではなぜ都市部の守りが貧弱だったかというと、異民族からの侵略の心配がない日本では、民家や都市が侵略の標的になることは少なかったからだと言われています。こうした背景から、都市と住民を守るという発想が育ちにくかったため、城を攻めにくくしつつも都市部の守り自体は薄かったと考えられています。

日本の城の巧みな防衛システム:地形を利用した工夫

こうした防衛の要であった堀ですが、人力で掘ったものだけでなく、自然の地形を巧みに利用したものも存在しています。その多くは豊富な水を活用することで防御力を高めていました。例えば、崖段丘と呼ばれる川の流に沿って階段状になっている地形の崖の上に城を建てることで、高低差により自然の防御が可能でした。また、川の川を引き込んで堀の代わりにしたり、沼地や湿地を利用して敵の行動を制限する城もありました。その代表例が、真田昌幸によって長野県上田市に築かれた上田城です。巧みに川の流を引き込むことで、徳川軍の二度にも渡る侵攻を跳ね返したことでも知られています。現在も城跡の崖に残る堀は12メートル以上の高さがあり、まさに難攻不落であったことが伺い知れます。また、長篠の戦いの舞台となった長篠城も、川と崖を利用した防御の好例でしょう。場所は愛知県新城市、寒狭川と豊川のちょうど合流地点に位置する河岸段丘の上に築かれた長篠城は、厳しい天然の要塞となっています。その防御力は素晴らしく、なんと長篠城兵500人に対し武田軍は1万5000人いたにもかかわらず、攻め落とすことができませんでした。

城下町全体が防御システム!

こうした堀での防御以外にも、城を守る仕組みがあります。実は、城下町全体が防御システムとして機能していたのです。どういうことかというと、まず第一の防御として、城の近くには上級武士、その外側に下級武士を住まわせる武家地を配置しました。こうすることで有事の際、すぐに城に駆けつけて参戦することができます。さらに武家地の外側には商人や職人たちの町人地を作り、城下町の外側には堅固な造りの神社や寺を置き、侵入を難しくするという計画的な配置がなされました。建物は隙間なく建てられ、要所には堀や門、街道も設けることで、いっそう防御力を高めたそうです。その上、多くの城下町では道路に工夫が凝らされていました。各々曲がる鍵の手と呼ばれる道や、丁字路、袋小路や、あえて進行方向にまっすぐ進めないようにした食い違いなど、複雑な道により敵が城に近づくことを困難にしたのです。

あなたの住む町でも見たことがあるのではないでしょうか?「なんでわざわざ行き止まりを作るんだよ」と思われたことがあるかもしれません。確かにこの入り組んだ構造は交通の面では不便でしたが、防御には極めて効果的でした。ちなみに、こうした地形を生かした防御は、ヨーロッパでも行われた事例があります。例えば、12世紀のシリア・トルコ・サラーディン城では、沿岸部という立地を生かしています。内陸部の城では井戸や川から堀に水を引くのが一般的だったのに対し、ここでは20もの堀にジョージ海水を引き入れていました。さらに極端な例を挙げると、シリアのソーヌ城には世界で最も規模の大きい堀があります。なんと城の土台部分をのこして周囲をぐるりと削り取り、幅18メートルもの堀で城を孤立させてしまったのです。まるで橋をかけなければ近づくことすらできない要塞となりました。地形を生かす防御は、日本のみにならず世界中で考えられていたと言えるでしょう。

城での暮らし:日本とヨーロッパの衛生観念の違い

このようにヨーロッパと違い、高い城壁が作れない日本の城では、堀や地形の利用、そして城下町全体を使った重層的な防御システムを発達させていきました。では、こうした都市造りの違いは城での暮らしにどのような影響を与えていたのでしょうか?両者の住みやすさについて詳しく見ていきましょう。

生活をする上で重要な要素、それは衛生です。日本とヨーロッパの城をこの衛生面から比べてみると、面白いことが見えてきます。特にトイレ事情の違いは非常に顕著に現れていました。

日本の城:徹底的な衛生管理

まず日本の城のトイレ事情ですが、そもそも日本の城ではトイレの設置そのものが極めて限定的でした。例えば、姫路城では天守閣の地下に2つのトイレが確認されているだけで、他の櫓には一箇所もトイレが設置されていません。さらに面白いことに、この天守閣のトイレにも3つの備前焼の落とし込み式便器が設置されていたものの、昭和に天守閣を大修理した際の調査で、使用された形跡が全くないことが判明しました。なぜ、せっかく作ったトイレを使用しなかったのでしょうか?

この理由は、当時の日本の城では衛生管理が極めて重視されていたことに関係しています。現代のように効果的な消毒薬もない時代、トイレの排泄物が原因で疫病が蔓延すれば取り返しのつかない事態になりかねません。そこで考え出された解決策が、おまるの使用です。城中ではおまるを使い、排泄物はすぐに城外へ運び出して処分するようにしていたと言われています。トイレの下に設置した大きな壺を動かすのは大変ですが、この方法なら大した手間をかけることなく城内を清潔に保つことができたのです。この衛生管理の徹底ぶりは、当時の城の掟からも伺い知ることができます。例えば1581年には御法度として、馬の糞尿は毎日城外に処分し、遠くへ捨てるように定めたものがあります。また翌年には足軽衆でも同様の規定を設け、人、馬の糞尿を一日以上放置することを禁じました。

ヨーロッパの城:簡素な設備と衛生管理のずさんさ

一方、ヨーロッパの城のトイレは全く異なる発展を遂げていました。13世紀頃からイギリスやフランスの城には、гардероб (гардероб)と呼ばれる特徴的なトイレが設置されるようになります。これは城壁から張り出した場所に設置されていました。このгардеробには、信じられないような名残が存在します。その名残とは、排泄物の臭気が下水道による異臭を防ぐというものです。そのためなんと、中世のイギリスではこのгардеробに一層を吊るして保管していたというから驚きです。ちなみに現代ではタンスなどをワードローブと呼びますが、гардеробがその語源となっています。

このгардеробは城内の様々な場所に設置されており、その存在は建物の特徴からも容易に確認できます。というのは、гардеробのある城壁部分には細い排水用の通路があったり、またトイレのある階には張り出し部分があるので分かりやすくなっているのです。このгардеробの仕組みはとてもシンプルで、排泄物を城の外に自然落下させることが分かったようです。他には金属製のシュートを通して地下の排水溝に落とすパターンもありましたが、基本的には城外の堀に落とされるか、そのまま地面に転がり落ちる仕組みでした。これらの廃棄物は後に業者によって処理されたと言います。なお、シュートを使ったトイレには、思わぬ弱点になることもありました。13世紀のフランス・ギャイヤール城やウズベキスタンにあったアルク城の包囲戦では、このシュートを利用して敵が城内に侵入する事件が起こっているのです。

これに関しては、当時の攻城兵の執念に拍手を送っておきましょう。

このように日本とは全く異なる仕組みを持っていたヨーロッパのトイレですが、設置数はどうだったのでしょうか?やはり、その数も日本とは大きく異なっているようです。ヨーロッパでは城内のトイレは使用者に応じて数を多く配置しました。その種類も豊富で、主君の家族用、来賓用、守備兵用、惣略用などがあります。設置のされ方は現代に通じるものがあり、当時の主衛用のトイレは複数の便座が横並びか背中合わせに設置されていたそうです。また、主君のトイレは広間や主君の寝室の近くの橋に設置されていましたが、狭い回廊を通っていく必要がありました。これは、防衛上の対策だったと思われます。衛生対策としては、臭気対策として換気用の窓が設けられているほか、木製のドアで仕切られていたり、使用後は鉢や水差しで手を洗う習慣もあったそうで、ほぼ現代の私たちと同じような造りのトイレだったようですね。

このように、日本とヨーロッパの城では、トイレに対する考え方や対策方法が大きく異なっていました。日本が徹底的な衛生管理を重視したのに対し、ヨーロッパは実用的な設備を整えていたと言えるのではないでしょうか?しかし、トイレの違いは氷山の一角に過ぎません。もう一つ、衛生管理に関して対照的な違いがあります。それは、城内の清潔さを保つための方法です。

城の衛生管理:日本とヨーロッパの対照的な取り組み

まず日本の衛生管理ですが、城内は外に比べて狭い空間ですよね。そこに大勢の人々が長期にわたって詰め込めば、汚れが蓄積していきます。日本では古来より、たびたび発疹チフスなどの疫病が流行した苦い経験から、汚れを放置することが病気につながることを知っていました。そこで日本の城では、徹底的な清掃が日課として確立されていきます。特に印象的なのは、先ほどのトイレの規定でも登場した御法度帳の取り組みです。御法度帳が作成した小田原城の規定には、「毎日、土間を掃除、厳密に行うべし」という規定がありました。土間とは城内の区画のことです。この規定は自分の所属する土間をよく掃除するように指示するものです。この他にも、御法度帳の城郭関係資料には「掃除」という言葉が頻繁に登場するほど、清潔さへの意識は徹底していたようです。

一方、ヨーロッパの城の衛生管理は日本とは全く意識が異なります。まず、中世の城の床にはあるものが散りばめられていました。それは何かというと、い草や藁です。当時のヨーロッパでは、カーペットの代わりに藁などが敷くのが一般的でした。そして問題だったのは、このカーペットの交換頻度です。これらの清掃と交換はメイドの仕事でしたが、その頻度は主君の好みによってまちまちでした。月ごとに交換する城もあれば、季節ごと、さらには年に一度しか交換しない城もあったと言います。この衛生管理のずさんさは、15世紀の大学者エラスムスの手紙からも生々しく伝わってきます。彼によると、床のい草は時々張り替えられるものの適当な材料だったため、下層部は20年間も放置され、そこには痰や嘔吐物、人や犬の排泄物、ビールや魚の残骸など様々なゴミが堆積していたと言うのです。そして天候の変化と共にその床から瘴気が発生し、健康に極めて有害だとエラスムスは警告していました。また、建築使用上窓が少なく換気がしにくい点も問題でした。するとその後、さすがにこの状況はまずいと、改善案としてい草や藁の安価なマットが導入されました。これは床を掃除する際に外に出して叩くことができる便利なものです。さらに悪臭対策として、マットにはラベンダーやカモミール、バラの花びら、ミントなど香りの高いハーブが散りばめられていました。ただ、このマットはとても快適そうですが、主君のなかには藁が散りばめられた見た目がお好みだったようで、導入しない城も多かったようです。

城での暮らし:寒さとの戦い

こうした衛生管理のほか、ヨーロッパの城には別の問題もありました。それは建物自体の構造に起因する暗さと寒さです。先ほども換気の点で触れた窓にも起因する問題ですね。中世ヨーロッパの城は堅固な防御のために石造りが基本でしたが、当時の建築技術では大きな窓を設けることができませんでした。その結果、厚い石壁は太陽の光で十分に温められず、部屋は常に暗く寒い状態が続いたのです。ですが、この問題は12世紀後半以降、建築技術の発展とゴシック様式の導入により改善されていきます。ゴシック様式とは、天井を三角形のようなとがった形状にすることで、壁を薄く、建物をより高く作ることができるようになった建築方法です。それまでのロマネスク様式で必要だった多数の石材が必要なくなったことで、より大きな窓を持つ明るい部屋が設計できるようになりました。しかし、まだ寒さの課題が残っています。驚くべきことに暖炉は12世紀中盤まで存在せず、それまでは囲炉裏のような直接暖房で城を暖めていました。これでは熱が効果的に拡散せず、大量の煙が発生する始末。ですがそれを解決する暖炉が登場しても、排煙装置をつける大がかりな工事は難しかったため普及には時間がかかったようです。ただし、この寒さの課題はヨーロッパだけでなく、日本の城にもありました。当時は効果的な断熱材などありませんし、暖炉もありません。そのため、伝統的な囲炉裏や湯たんぽ、どてらなどの防寒具で寒さに耐えていたそうです。

日本とヨーロッパの城:暮らしやすさの根本的な違い

このように、日本とヨーロッパの城では根本的な考え方の違いが暮らしやすさの違いを生んでいました。ヨーロッパの城ではトイレや暖炉などをはじめ、より便利な設備の充実を重視していましたが、衛生管理はずさんなものでした。対して日本の城は衛生管理に重きを置くことで健康に暮らすことに力を注いでいましたが、その反面、トイレや寒さ対策には若干不便もあったようです。こうして城での暮らしを見るだけでも、日本とヨーロッパの文化的違いが如実に体感できて面白いですね。

意外な挑戦:小田原城の城塞都市化計画

さて、これまでヨーロッパの城塞都市、日本の城と城下町の様々な違いを楽しんできましたが、実は日本にも一度だけヨーロッパ型の城塞都市を目指した野心的な試みがあったと言われています。その試みは、戦国時代末期の小田原で起こりました。当時の小田原といえば東日本で最大の都市ですが、一体何が起こり、どのような結末を迎えたのでしょうか?

小田原城と総構え:前代未聞の大規模防衛計画

時は16世紀の戦国時代。御法度帳が治める小田原城は、難攻不落の城としてその名を轟かせていました。あの上杉謙信や武田信玄の侵攻にも耐えたという難攻不落の城です。ですが、16世紀も終わり頃、豊臣秀吉が攻めてくると悟った御法度帳は、前代未聞の大規模な防衛計画を実行に移します。それは、総構えの建設です。総構えというと、先ほどもご紹介した通り、城下町ごと堀で囲むことです。その規模はそれまでの総構えとは一線を画す、まさに壮大なものでした。なんと、旧領部から海岸線まで、実に周囲約9キロメートルにも及ぶ防御線が築かれたのです。堀は上幅が20~30メートル、深さが10~15メートルという驚くべき規模で、さらにその内側には土塁と呼ばれる土を盛り上げて堤防のようにした防御設備が設けられました。驚くのはそれだけではありません。堀の構造も画期的なものでした。近年の発掘調査により、堀の斜面は曲線状で、そこに小堀と呼ばれる特殊な仕掛けが施されていたことが分かっています。これは高さ2メートルほどの小壁を敢えて堀に残すもので、堀底に落ちた敵の動きを封じる巧妙な防御システムでした。ここまで規模になると町にすら簡単に侵入できず、もはや堀ではなく壁、まさにヨーロッパの城塞都市ですよね。これまで日本では城の守りは堅固なもの、城下町の守りは貧弱なことが当たり前でした。そのためこの小田原城の試みは、実に革新的なものだったわけです。なお、御法度帳が海外の事例を知っていたかは不明です。ただ、その作りは海外の城塞都市と非常に似通っていたことは間違いありません。

なぜ御法度帳は城下町ごと防衛しようとしたのか?

しかし、なぜ御法度帳はそもそも城下町ごと防衛しようとしたのでしょうか?その理由は、当時の小田原の城下町の規模にあります。東日本最大の都市だった小田原の城下町には、食糧や兵器、武具を扱う商人たちが集まり、日用品から武具まで様々な職人が腕を競っていました。そして争いが長期戦となれば、これらの職人たちの存在は不可欠です。さらに壁の内側には広大な田畑も含まれており、食糧や武器などの戦争に必要な物資の調達が城内の都市だけで可能な状態でした。こうしたインフラを支える民衆を一緒に保護することで、城自体の防御力を上げる狙いがあったのです。実際に秀吉軍による包囲の際には、多くの農民たちもこの中に避難したと伝えられています。

この小田原城の城塞都市への挑戦は、日本の城郭史に新たな可能性を開いたはずです。しかし、どうやら現代に至るまで、日本には城塞都市が誕生することはなかったようです。一体なぜなのでしょうか?その背景には、ある人物による巧妙な政治戦略が隠されていたと言われています。

秀吉の策略:平和と秩序、そして城塞都市の消滅

小田原城が城塞都市になりかけていた頃、秀吉が20万もの軍勢を引き連れて小田原征伐に乗り出しました。対する小田原城の軍勢はわずか3万4000。この圧倒的な戦力差で、すぐに降伏すると思われた小田原城ですが、なんと3ヶ月間の包囲戦を実質引き分けに持ち込みます。というのは、小田原城は最終的に落城したものの、戦闘による敗北ではなく、調略、つまり話し合いによる開城だったのです。この事実は、城塞都市が防御戦において極めて有効であることを明確に示し、戦国武将たちに大きな衝撃を与えました。特に注目されたのは、一般市民を城壁内に籠城させ、武士と共に戦う戦略です。御法度帳は秀吉の進攻に備え、15歳から70歳の男子を対象にした徴兵を行っていました。こうした一般市民の戦争への参加は、戦国時代後期には防御力を弱めると避けられる傾向にありましたが、むしろ強化することが実証されたわけです。この戦略の有効性は、特にこの小田原征伐の最中に起こった忍城の攻防戦にも見られます。現在の埼玉県行田市にあった忍城は、御法度帳の名将だった成田氏長の居城でした。小田原征伐に伴いこの忍城も攻めの対象となりましたが、主君である成田氏長はすでに小田原の戦に向かっていたため、主君不在での籠城戦となりました。さすがに主君不在ではすぐに降伏するだろうと思いきや、なんと少年や女性を含む多くの民衆が、徹底して自らの拠点を守り抜いたというのです。その抵抗はすさまじく、信じられないことに小田原が落城した後もなお、降伏することはありませんでした。最終的に小田原にいた主君の降伏の報を受けて降伏するまで抵抗を続けたというから驚きです。

この忍城はそもそも四方沼地に囲まれた堅固な城ではありましたが、とはいえ主君不在という不利な状況で籠城を続けられた背景には、武士だけでなく農民や職人、商人、惣吏、さらには女子供までもが一丸となった地域共同体の結束があったからでしょう。

民衆が共に戦った事例:島村城の戦い

民衆が共に戦った事例でもう一つ印象的なものがあります。それは九州の島村城の戦い。1587年、熊本県山鹿市にある島村城は、秀吉による九州征伐を成した佐々成政の軍勢相手に一揆を起こします。城主隈部親泰の指揮の下、男約8000人、女約7000人という大規模な籠城戦が展開されました。この戦の特筆すべき点は、このうち武士がわずか800人程度だったことです。戦いに参加したもののほとんどが一般的な農民や町人、惣吏でした。彼らは鉄砲830挺、弓505張りという武器で武装し、実に7ヶ月もの間、降伏することなく戦い抜いています。城そのものは小田原城のような総構えではありませんでしたが、市民も含めた総力戦を展開することで強力な防御力を発揮しました。しかし、この島村城の戦いが、日本の城塞都市の未来を大きく変えてしまうことになったと言われています。

島村城の戦い:城塞都市誕生を阻んだ要因

この島村城で起こった一揆の報告は、北野大茶会を開催したばかりの秀吉の耳に入りました。そして皮肉なことに、この茶会は秀吉の九州制圧を広めるために開かれたものでした。にもかかわらず「九州で反乱が起こっている!?」「九州制圧とは!?」こうして面目を潰されてしまった秀吉は、当初予定していた茶会を一日目で中止し、民衆一体となった防御と、これからできるであろう城塞都市への対策を練り始めたと言われています。そしてその一ヶ月後に打ち出した対策、それが兵農分離の完全実施と刀狩の命令でした。兵農分離とは、武士と町人の社会的役割を完全に分ける身分制度です。またそれに伴い行われた刀狩は、武士以外の身分の者には武器を放棄させるものでした。秀吉は、城塞都市の発展が今後の統治にとって大きな脅威となることを察知しており、都市の城塞化を防ぐには兵農分離が不可欠だと考えていたのです。

とはいえ、秀吉は兵農分離を進めながらも、堅固な城壁のような防御施設の建設自体は禁止していません。小田原攻略後も総構えの撤去を命じることなく、各地での総構えを作る工事も黙認しています。城塞都市が危険であるならば、それと似た性質を持つ総構えを禁止すべきではないかと思われますが、秀吉はそれよりも人々の身分を区別する兵農分離を重視していました。なぜかというと、彼にとって重要だったのは目に見える城壁や堀ではなく、目に見えない社会体制の変革だったからです。これまでの事例から、城塞都市の防衛に最も必要なのものは民衆の協力だと秀吉は見抜いていたのです。そのため、武士と農民・町人の社会的役割が明確に分離されれば、たとえ城塞都市の形をとっていても市民の戦闘協力は実現しないと秀吉は考えたのです。そしてその読みは見事に的中します。例えば滋賀県大津市にあった堅田城の攻防戦では、京都の町人たちが米蔵を高みに据えながら戦いを牽制する様子が見られました。これは民衆の心情が変化し、戦争は武士が行うものという意識に変わったことを示しています。ただし、この変化は完全なものではなかったようです。秀吉死後の大阪の陣における大阪城の籠城戦では、以前として多くの一般市民が参加しています。これは、戦う当事者への感情によって市民の協力態度が変化したことを示しているでしょう。どうにもできない相手には防衛者となり、共感できる側には積極的に協力するといった、より主体的な判断も戦場に影響したということです。

秀吉の社会改革:城塞都市が誕生しなかった理由

このように、城塞都市が日本で発展しなかった背景には、秀吉による巧妙な社会改革がありました。兵農分離という政策は、単なる物理的な制限のみならず、人々の意識を変えることで城塞都市の可能性を封じ込めたのです。こうして日本では、ついぞ城塞都市が発達することはありませんでした。地理上の違いにより、全く異なる発展を遂げた日本とヨーロッパの城と町。何かが一つ違えば、日本でも城塞都市が発達していたかもしれない。そんなことに思いを馳せられるのが歴史の面白いところですね。世界の歴史はまだ謎に包まれています。これからも一緒に、世界の謎を覗く旅に出ましょう。それでは、次の旅でまたお会いしましょう。ご視聴ありがとうございました。