あの「ぷよぷよ」を生んだコンパイルの栄光と悲劇、そしてコンパイルハートの現在
- 2024-12-31
あの「ぷよぷよ」を生んだコンパイルの栄光と悲劇、そしてコンパイルハートの現在
皆さん、こんにちは!今回は、日本のゲーム業界に大きな足跡を残したものの、突如として姿を消したゲーム会社「コンパイル」とその後の歩みについて、徹底的に解説していきます!あの国民的ゲーム「ぷよぷよ」を生み出した会社が、なぜ倒産してしまったのか?そして、その遺産はどのように受け継がれているのか? 知られざるコンパイルの歴史を紐解き、現代のコンパイルハートへと繋がる物語を、皆さんと一緒に辿っていきましょう。
コンパイル創業と二谷社長の波乱万丈な人生
コンパイルは、1982年に二谷正満氏によって創業されました。広島県出身の二谷氏は、実家が貸本屋だったこともあり、少年時代は漫画に没頭していたそうです。しかし、その一方で、学力、特に理系科目は抜群に優秀で、広島大学に進学。1960年代の日本の大学進学率は10%台だったことを考えると、既にエリートコースを歩んでいたと言えるでしょう。
しかし、大学に入ると、勉強に必要性を感じなくなり、学生運動やアルバイトに明け暮れる日々を送ることに。留年を繰り返し、5回目の留年が決まった時点で大学を中退。その後、広島電鉄に入社するも、今度は労働運動に熱中し、1978年、28歳の時に成田闘争に参加したことで逮捕されてしまいます。当然ながら会社を退職することとなり、その後は印刷会社に2年、アーバン電子のPCショップに2年と職を転々とすることになります。
日本のパソコン産業が黎明期を迎えていたこの時期、二谷氏はパソコンに興味を持ち、アーバン電子に勤めながら独学でプログラミングを習得します。しかし、PCショップの社長と折り合いが悪くなり、わずか2年で退職。アマチュアレベルのプログラミングスキルしか持たない状況でしたが、「これで何とか食べていけるのではないか」と考え、1982年に独立、一人だけでコンパイルを創業したのです。
セガとの出会い、そして「ザナック」の大成功
創業から2年間は、一人でソフトウェア開発を細々と続けていた二谷氏でしたが、なかなか収益には結びつきませんでした。そんなある日、人づてにセガからゲーム制作の仕事を紹介されます。当時の日本のゲーム業界はアーケードゲームが主流で、家庭用コンピュータゲームはこれから普及しようとしていた過渡期。セガもソフト供給を強化しようとしていたタイミングで、PCを扱える人材、ゲームを作れる人材が圧倒的に不足していました。そのため、コンパイルのような零細企業にも仕事が舞い込んで来たのです。
二谷氏はゲーム制作に興味があったわけではありませんでしたが、目の前に仕事があったため、二つ返事で受注。セガがアーケードでリリースしているゲームの移植作業を3本引き受けました。一人で捌ききれないため、アーバン電子時代にお客様だった藤島聡氏と広野高行氏の2名を誘い、共同で開発を進めることになります。
このPCショップで知り合ったメンバーが集まって創業されたという経緯は、岩田聡氏や桜井政博氏を輩出したハル研究所と非常に似ており、創業年も近いことから、両社は極めて似た性質を持ったゲーム会社だったと言えるかもしれません。後のハル研究所が任天堂と、コンパイルがセガと強い関わりを持つようになることを考えると、興味深い対比となっています。
コンパイルは、「ボードライン」や「N-サブ」といったタイトルのSG-1000向けの移植を請け負い、セガのセカンドパーティーのような立ち位置でゲーム開発会社として歩み始めます。セガとの関係は良好で、その後も移植作品を多数担当しますが、それと別にMSXというハードに向けてオリジナル作品も次々と送り出すようになります。
そうした中で生まれたのが、当時を知る方々には有名な縦スクロールシューティングゲーム「ザナック」です。二谷社長がディレクター、広野高行氏がプログラマーという布陣で開発されたザナックは、プレイヤーの技量に応じて展開と難易度が変化する「ALCシステム」を搭載。これが他のシューティングゲームにはない新鮮さを提供し、高い評価を獲得しました。
1986年に発売されたザナックは、翌年にはファミリーコンピュータディスクシステム向けにもアレンジ版が移植され、全世界で100万本を超えるセールスを記録。このザナックの成功を見たセガは、すぐにコンパイルにシューティングゲームの制作を依頼します。そして今度は「アレスタ」というザナック系のシューティングゲームをセガハード向けに開発。こちらもアレスタシリーズとして長く続く人気作となりました。
このように、創業初期のコンパイルは良質なシューティングゲームを輩出するゲームメーカーとして業界で名を馳せるようになっていきました。
ファンを大切にした「ディスクステーション」と「魔導物語」の登場
優れたゲームを生み出す一方で、コンパイルは1988年頃から「ディスクステーション」というユニークな取り組みも行っていました。これは当時のPCメディアであるフロッピーディスクを使った雑誌、いわゆるディスクマガジンの一種として制作されたもので、コンパイルや他社のオリジナルゲームの体験版などを収録、販売していました。
ディスクの内容は、コンパイルの新作情報、体験版、社員インタビュー、漫画、イラスト、読者投稿コーナーと非常に充実していました。これが月刊で刊行されていたため、ファンにとってコンパイルを身近に感じられる、非常にコスパの良い商品だったそうです。
こうしたファンサービスを大切にし、ファンを喜ばせたいというフレンドリーな姿勢は、他のゲーム会社にはないコンパイルならではの特長でした。
そして1989年には、コンパイルを語る上で外せないIPが登場します。それが、3Dダンジョン探索型RPG「魔導物語」です。この作品は、先ほど紹介したディスクステーションの一コンテンツとして世に出ました。「魔導物語 エピソード2 カーバンクル」が1作目となり、最初は「スターウォーズ」を意識した作品だったそうです。
その後、1990年にはエピソード1、2、3がセットになった「魔導物語1・2・3」がMSX2向けにリリース。本作の企画ディレクターを務めたのは米光一成氏で、当時コンパイル社のキャッチコピーで有名な「農民をこねこねコンパイル」を考案した社員でもあります。
米光氏は、ドラクエやファイナルファンタジーといった名作RPG人気に便乗した粗悪品が大量に出回っていた当時のゲーム業界にうんざりしており、そこへのアンチテーゼとして、女の子を主人公にして「世界は救わない、しもやけになったら薬を取りに行くとか、そんなもの。身近な世界を冒険する」という魔導物語の構成を考えつきます。
この魔導物語に出てくる敵モンスターが、ぷよになります。ここからコンパイルを代表する大ヒット作「ぷよぷよ」に繋がっていくのです。
「ぷよぷよ」の大ヒットとコンパイルの転落
「ぷよぷよ」は、魔導物語1・2・3がリリースされた翌年の1991年に誕生しました。1980年代末から90年代初頭のゲーム業界では、落ち物パズルゲームの始祖であるテトリスがブームを巻き起こしており、任天堂の「Dr.マリオ」、セガの「コラムス」といったテトリスフォロワーの作品が多数誕生し、一大ジャンルとして注目を集めていました。
高い中毒性の割にゲームシステムは極めてシンプルで、開発コストもそれほどかからないことから、コンパイルも「とりあえず参入してみよう」という軽い気持ちで企画を開始。結果的に生まれたのが、ドミノをテトリスのブロックに見立てて、同じ数字を横に揃えれば消せるという「ドミノス」というゲームでした。
しかし、開発メンバー自身が面白いと思えるまでどうしても仕上がらず、改善案も出ないままプロジェクトは一時中断。そうした状況で案を引き継いだのが、魔導物語で企画・ディレクターを務めていた米光氏でした。
米光氏は、ドミノスの担当プログラマーが完全にやる気を喪失していたため、まずは彼らのモチベーションを立て直さなければならないと考え、これまでの落ち物パズルとは全く違う落ち物パズルを作ろうと発想。落ち物そのもののデザインを全面的に変更するという決断をします。
当時の初期開発段階の落ち物は、テトリスのソリッドな質感に近く、これでは二番煎じになってしまうと判断。そこで、ソリッドの正反対である「ソフト」をテーマにしてみたらどうだろうかと考えました。ここで米光氏の中で閃きが繋がり、魔導物語の雑魚キャラだった「ぷよ」を使って見ようという発想に至ります。
そこから、ご存じぷよぷよの連鎖システムや、相手への攻撃を主体とした対戦形式など、独自のコンセプトが固まっていき、プロジェクトは長きにわたった膠着状態から抜け出すことに成功します。
こうして1991年、コンパイルはぷよぷよを完成させ、最初にMSX2向けに販売を開始しました。しかし、このバージョンのぷよぷよは「初代ぷよぷよ」という扱いになっており、ぷよの色数が6色だったり、CPUとの対戦が用意されていなかったりと、まだ未完成感が強く、ゲーム雑誌でもDr.マリオと戦脳ゲーム「テクパキ」をかけ合わせたようなオリジナリティのかけらもないゲームと評され、特段大きな話題を呼ぶことはありませんでした。
しかし、翌1992年、多くの改良を加えたいわゆる「新ぷよぷよ」がアーケード版としてゲームセンターに登場すると、たちまち大きな反響を呼ぶことになります。当時ゲームセンターではストリートファイターIIを始めとした対戦格闘ゲームブームの真っ只中で、そのファン達が流れ込む形で、パズルゲームとしては異例なまでに対戦要素が強かったぷよぷよも人気を博したのです。
そしてスーパーファミコン、メガドライブの家庭用ハードに移植されると、今度はゲームとは縁のない幅広い世代まで認知度を増やし、多くのぷよぷよファンが誕生しました。それからまさにぷよぷよフィーバーで、2年後の1994年には「ぷよぷよ2」、更に2年後の1996年には「ぷよぷよSUN」とナンバリング作を立て続けに発売します。
96年には、幕張メッセで「全日本ぷよぷよマスターズ」という大会を開催し、1万8000人を集めるなど、イベントも積極的に展開したことで人気が急上昇。絶頂期の97年3月期には、売上高70億円を記録します。コンパイルを一夜にして広島の代表企業にのし上げた二谷社長自身も名物社長としてたびたびメディアに登場するようになり、まさに時代の寵児として持て囃されるようになります。
しかし、皆さんお分かりの通り、コンパイルにとってここはピークでした。会社の運営はその後、一気に急転直下することになるのです。一体何が起きたのでしょうか?
コンパイルの倒産劇:拡大戦略の失敗と資金繰り悪化
実はぷよぷよフィーバーの裏で、コンパイルにとって徐々に歯車が狂い始めていく事態が進展していました。
まず第一に大きかったのが、新作タイトルが不調だったことです。「ぷよぷよ2」は初代ぷよぷよをブラッシュアップした丁寧な作りで、シリーズ最高傑作とも名高い名作ですが、続く3作目の「ぷよぷよSUN」は、2が出来が良すぎた上に、高くなったユーザーの期待に応えることができず人気が失速。売上も低迷し、コンパイルの想定を下回る結果となりました。
熱心なぷよぷよコミュニティは健在だったものの、かつての熱狂とともに参加してきたライト層は2でピークアウトしていたのです。また、ぷよぷよの生みの親である米光氏は、初代作発売後に二谷社長との意見の相違を理由にコンパイルを退職しており、こうした優秀なアイデアマンの不在も人気低迷を食い止められなかった要因の一つでした。
そして、コンパイルにとって決定的に深刻なダメージを与えることになったのが、行き過ぎた拡大戦略でした。ぷよぷよを世界規模で人気のあるゲームにしたいと、1996年には韓国にコンパイルコリアを設立し、グローバル進出を開始。しかし、設立直後に発売されたSUNの売上が振るわなかったことで、投資を回収する間もなく、資金繰りが悪化していきました。
そして経営を圧迫した投資はこれにとどまりません。これは有名な話かもしれませんが、二谷社長肝いりの一大プロジェクトとして、テーマパーク「ぷよぷよランド」を千葉県に建設するという、ゲーム企業としては斜め上過ぎる企画を立ち上げたことで、コンパイルの経営は徐々に奇怪な方向へ進んでいきます。
二谷氏は元々子供の頃からディズニーに強い憧れを抱いていたようで、ぷよぷよのヒットを目の前に、彼らに対抗できるレベルのテーマパークを作れるかもしれないと感じたことが発端だったと言います。
試算の結果、構想の実現には500億円という莫大な予算が必要であることがわかり、二谷氏は、この巨額の資金をコンパイルを株式上場させることによって調達しようとします。上場を目指すのであれば、企業価値をさらに高めなければならないと、早まる気持ちを抑えられずに勢いに任せて多くの新規事業を立ち上げていきます。
オートバイチームを結成したり、ビジネスソフト分野へ参入してみたり、はたまた広島名産の紅葉饅頭を模した「ぷよまん」を作って自社工場を建設してまで生産してみたりと、ぷよぷよで得た資金に加え、複数の銀行から借り入れた資金の多くを湯水のように使っていくのです。しかし、どれも会社の業績に跳ね返るほどの大きな成果を残すことができませんでした。
では本業のゲームの方はというと、こちらも苦戦を強いられていました。本来ゲーム会社としては複数のIPを手に取りリスク分散しながら売上を上げるべきですが、過去の栄光が忘れられなかったのか、とにかくぷよぷよの人気を持続させようと、テレビCMを中心に過剰な広告宣伝を行ったりすることで、非常にリスクの高い経営状態から抜け出せずにいました。
「このままではまずいかもしれない」そう思った矢先の出来事でした。
1997年11月、産業証券、北海道拓殖銀行、山一證券が同じ月に経営破綻するという、日本金融業界で後にも先にもない異例事態が発生。煽りをうけるように全国の金融機関の資金繰り悪化が始まり、それらの金融機関が企業に貸し付けていた融資をいち早く回収しようとする、いわゆる貸し剥がしが発生。
多数の機関から融資を受けていたコンパイルも、予定外に返済をせまられ、一気に資金がショート。当然他の所から追加で資金を調達できるような経済状況でもなく、1998年3月、コンパイルはあっけなく経営破綻に陥ってしまいます。
実は二谷社長は、経営破綻の4ヶ月前の97年12月に、コンパイルにとって長年のパートナーであったセガに対して運転資金の援助を相談していました。セガからの返事は、「仲間なので支える。ただ条件がある。ぷよぷよの権利と引き換えなら10億円出すことができる。権利は買い戻すことも可能」というものだったのです。
この申し出に対し、二谷社長は深く考えずにぷよぷよIPの譲渡を決断してしまいます。援助もむなしく、手にした10億円の半分は従業員のボーナスに消え、最終的に75億円の負債を抱えて倒産という結末を迎えたのです。
コンパイルの遺産とコンパイルハートの歩み
コンパイルが消滅した後、「ぷよぷよ」はセガ傘下のIPとして定期的に新作がリリースされ、現代ではコンパイルを知らない若い世代からすれば「ぷよぷよ=セガ」のイメージが強くなっています。
一方、ぷよぷよ以外のIPの行方はというと、コンパイル倒産後は「D4エンタープライズ」という会社に権利が譲渡されることとなりました。D4エンタープライズは「プロジェクトEGG」というレトロゲームのダウンロード販売サービス事業を手掛けており、コンパイルがかつて送り出した数多くの作品を今も販売しています。
そして、当時コンパイルに所属していた社員たちはというと、全員がゲーム業界を中心に他の企業へと巣立っていったものの、中には倒産を機に独立して大きく名を上げた人物もいます。中でも有名なのは、Fateシリーズの制作を手掛けたゲームブランド「TYPE-MOON」の武内崇氏です。TYPE-MOON創業メンバー4名中、シナリオライターの奈須きのこ氏を除く3名が元コンパイル社員でした。
一方、二谷元社長はしばらくゲーム業界の表舞台から消えてしまいますが、2016年に「コンパイルハート」という新会社を設立し、復活を果たしました。「ニョキニョキ」というぷよぷよの欠点を全て改善したと豪語する落ち物パズルを制作し、界隈で話題となりました。続編に向けたクラウドファンディングも行っていたようですが、その後ニョキニョキの消息はなく、最近はYouTubeの個人チャンネルで定期的にゲーム配信をしているようです。
以上がコンパイル倒産後の動きになりますが、コンパイルの後継を知るにあたってもう一つ外せない重要な会社があります。それが「コンパイルハート」です。
コンパイルハート:コンパイルの精神を受け継ぐ
コンパイルハートは、アイデアファクトリーというゲーム会社の子会社として2006年に設立された会社です。「アイデアファクトリー」と言ってもピンとこない方が多いかもしれませんが、「白皇紀」という乙女ゲームのIPを抱えるオトメイトブランドを展開している会社としても業界で知られています。
アイデアファクトリーの創業は1994年で、かつて日本にあった「データイースト」というゲーム会社から独立した、複数の元社員によって設立されました。設立当時のアイデアファクトリーの代表作は「スペクトラルフォース」や「ジェネレーションオブカオス」など、その尖った作風から一部熱狂的なファンを獲得し、「買うな、俺は買うが」という決め文句が生まれたことでも知られています。
こうした独特の路線で成長していったアイデアファクトリーですが、転機となったのは2006年。この年に子会社コンパイルハートを設立したのです。コンパイルハート創業当初から開発されていたゲームに「農民パズル タコロン」という作品があります。農民は、旧コンパイルのキャッチコピー「農民をこねこねコンパイル」から来ています。
実はコンパイルハート創業当時は、旧コンパイル社長の二谷氏と協業関係にありました。二谷氏は旧コンパイルの倒産後も業界にとどまっていたわけですが、その協業関係はわずか半年で終わりを迎えています。このあたりの経緯は詳細不明ですが、何かしらの不和があった可能性が高いとされています。
社名に「コンパイル」が入っており、ロゴまで似ていることから、コンパイルへのリスペクトから始まった会社であることには違いありませんが、二谷氏がその場を離れて以降、しばらくは旧コンパイルとは関係ない会社として歩んでいくことになります。
2010年には、コンパイルハートの看板シリーズとなる超次元ゲーム「ネプテューヌ」の第1作目が発売。ゲームメーカー、ゲームハードを美少女擬人化したカオス感が強いRPGで、アニメ化されるほどの話題作となりました。この頃から界隈では「コンパイルハート=美少女ゲーム」というブランディングが定着していきます。
ネプテューヌの発売から2ヶ月後の2010年10月、コンパイルハートは旧コンパイルのコンシューマーゲームの営業権をD4エンタープライズから取得したと発表。これによって創業以来4年ぶりに旧コンパイルとの関係が復活したのです。
発表後約3年間は目立った動きがありませんでしたが、2013年、「魔導物語」シリーズにとって約13年ぶりの新作となる「聖魔導物語」の開発を発表し、大きな話題を呼びます。しかし、この聖魔導物語の評価はあまり高くありませんでした。特にファンの中で批判の的となったのは、コンパイル時代の魔導物語のキャラクターがほとんど登場していないという点でした。
それもそのはずで、コンパイルが倒産し、ぷよぷよのIP権利がセガに渡った際、その権利の中にはぷよぷよ及びぷよぷよに登場した魔導物語キャラクターも含まれていたのです。従って、セガの協力がなければコンパイルハートの魔導物語の新作にアルルもカーバンクルもぷよも、誰も登場させることができなったのです。
この聖魔導物語の一件後、コンパイルハートは旧コンパイルIPの権利を保有したまま、数年間に渡って沈黙を続けます。しかし2023年、10年という時を経て、新たな動きが起こります。それが、旧コンパイル社員だった冨永尚登氏の社長就任でした。
冨永氏はコンパイル、カプコン、タイトーといった様々なゲーム会社を経験し、2020年にコンパイルハートに入社。そして冨永新社長就任と同時に発表されたのが、魔導物語の最新ナンバリング作「魔導物語4」でした。
本作は発表時点で既にセガの協力を得ており、ぷよなどの馴染みのキャラクターが登場すると明言されており、ファンにとってはまさに待ち望んでいた作品です。また、開発スタッフにも多くの元コンパイル社員が配置されたほか、なんとアドバイザーとして魔導物語の生みの親である米光氏がカムバックするという、コンパイル同窓会と言わんばかりの布陣で開発されていることも発表。
「魔導物語4」、正式名称「魔導物語 フィアットと不思議な学校」は2024年11月28日発売予定となっており、長年のファンを中心に大きな期待が寄せられています。
コンパイルの未来:伝説は再び蘇るのか?
コンパイルは今でもたまに話題に取り上げられ、「調子に乗って倒産した失態だらけのゲーム会社」と揶揄されることが多い会社です。確かに二谷社長の経営ミス、経営者としての責任感の欠如が批判の対象になっている側面はありますが、同時に二谷社長あってこそのコンパイルだったということもまた事実です。
コンパイルハートに文化が継承され続けているという点も、熱心なコンパイルファンが多くいることの恩返しでもあります。コンパイルの名が再び日本に轟く日は来るのか?注目していきたいところです。
コンパイルの歴史、いかがだったでしょうか?今回の動画は以上になります。この動画が良かったと思って頂けましたら、ぜひともチャンネル登録、高評価よろしくお願いいたします!めちゃくちゃモチベーションが上がります!
このチャンネルでは、時代時代に記録を残したゲームを作り出した会社・チームに焦点を当て、徹底解説した動画を投稿しています。感想やコメント欄では、この会社について解説して欲しいなど、ご意見いつでも受け付けておりますので、どしどしお待ちしております。ぜひともチャンネル登録をして、次回の動画をお待ちください。それでは最後までご視聴ありがとうございました!